名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第十七話「影走りの命」

 その朝、風は奇妙に凪いでいた。
 永禄三年五月十九日、桶狭間を見下ろす山間に、曇天が張りつめている。雲は重く低く垂れ、今にも再び降り出しそうな湿気を孕んでいたが、あの朝方まで叩きつけていた雨粒の気配は、土の表面に残された濃い色の染みとしてしか残っていない。空はまだ白んでいた。戦に向かう者たちの視界には、どこまでも鈍色の光と、淡い霞が横たわっていた。
 静は一人、谷筋を下っていた。
 風走組の任務は明確だった。今川義元の本隊が通過すると見られる尾根沿いの道筋に接近し、敵兵の配置、補給、地形の利を割り出した上で、撹乱と攪乱の突破口をこじ開けること――言い換えれば、それは“死地の中へ最初に入り込む役割”だった。生きて帰ることは前提ではない。だからこそ、彼が任じられたのだ。
 白装束の剣士、沖田静。
 その名がこの三日でいくつもの部隊に囁かれ、目撃され、そして畏れられ始めていた。「音もなく森を駆ける者がいる」と。「白い鬼が夜に紛れて現れる」と。味方でさえ、その噂の正体が“人”であるとは思えなくなっていた。
 ただひとつだけ、確かに分かることがある。
 それは――その白は、血の色によく染まる、ということだった。
 静の足取りは、音を立てなかった。草を踏むことなく、地を滑るように走っていた。鼻を抜ける匂い、耳に届く鳥の鳴き声、湿った土の感触、すべてがひとつの軸に収束していく感覚があった。呼吸は浅く、しかし正確だった。目の前の木立が風に揺れるたび、敵陣の気配を探る。
 小高い丘を越えたとき、谷を挟んで向こうの斜面に、人の動きがあった。松の影、土塁の上、矢倉のようなもの――そこに、飯を炊く煙が上がっていた。静はすぐに腰を落とし、手にした白鞘の刀を草むらに伏せるように抱え込む。その目が、細くなる。
「……なるほど」
 彼は囁いた。
 これはただの山道ではない。山肌に溶け込むように配置された兵たち、目立たぬように木々の陰に紛れる帳場、地形の起伏を利用した陣地のしつらえ――それらは偶然のものではない。ここに、今川軍の“本流”が存在していた。
 静は、ふっと小さく息を吐いた。全身の筋肉からわずかに力を抜くと、地を這うように斜面を駆け下りる。岩の陰、倒木の間、土に沈んだまま使われなくなった畦道の断面。視線の端で常に敵の動きを捉えながら、静はひたすら“風”であろうとした。
 風には形がない。
 風には声がない。
 風は斬られても、なお残る。
 その信念が、いまの静を突き動かしていた。
 やがて、敵の陣地の一角に、わずかに火が消えかけている焚火が見えた。そこに、五人の兵が囲むように座り、黙々と飯をかきこんでいる。全員が腰に太刀を差していた。将兵と見て間違いない。兵糧の容器が脇に並んでいる。炊事の中心部――兵站中枢であると、静は見切った。
 その時だった。
 どこか遠くで、かすかに鳥が飛び立つ羽音がした。
 静は、それが“合図”だと知った。
 信長本隊が、動いたのだ。
 つまり、自分も――“ここ”で、動かねばならない。
 静はゆっくりと立ち上がった。白装束が、風に舞った。剣が鞘から、鳴きもせずに抜かれた。
 次の瞬間、斜面に、血の花が咲いた。

 最初に倒れた兵の首は、斬られたことすら気づかぬまま、音もなく土に落ちた。
 その直後、座していたもう一人が血を噴き、短い悲鳴をあげようと口を開いたが、それが声として発されるより早く、静の白鞘がその喉を裂いていた。
 三人目が立ち上がる、その動作に反応して、静の体は地を滑った。左へ跳び、相手の剣を避け、そのまま逆の足で膝裏を払うように薙ぎ倒す。転倒した兵士の胸を、無造作に、だが正確に突き貫く。乾いた音がした。
 四人目が叫びかける。
「敵――!」
 その声は、最後まで届かなかった。
 静の足元が音もなく土を蹴る。身体を斜めに倒しながら低く駆け、喉元を掠めるように斬り上げる。赤い霧があがる。兵の口は、開いたまま二度と動かなかった。
 残った五人目の兵が、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。手にした槍を震わせながら振りかざすが、それは空を切った。気づけばもう、静はその背後にいた。
「……ごめんなさい」
 その一言が、兵の耳に届いたかは分からない。
 斬られた身体が地に倒れるまでの間に、静は既に数歩先の松の陰に身を伏せていた。そこには、次の隊列が迫っていたからだ。
 ひとり、またひとり。飯を終え、持ち場に戻ろうとする兵がいた。静は呼吸を整え、己の存在を気配ごと削ぎ落とす。
 この陣に、彼がいたという痕跡は、すでに風に消えていた。
 静は思う。
(ここで騒ぎが起これば、敵は内部に混乱をきたす。補給を止め、将兵の連携を乱す。その間に、信長公が本隊を突き通すことができれば――)
 そうなれば、自分の任務は果たされたも同然だ。
 けれど、まだだ。まだ“この命”は使い切れていない。
 静は、なおも足を止めない。
 その後の数刻、静は斬り続けた。
 斥候らしき兵を一人、物資を運ぶ若い従卒を二人、木陰に潜んで小休止する小頭格の男をひとり。そして、ついに。
 敵の本陣――と見られる幕営の外縁にたどり着いた。
 そこは他の陣とは空気が違った。兵の緊張が皮膚から伝わってくる。馬の嘶き、草履の擦れる音、遠くの指示の声、すべてが濃密だった。
 それでも静は進んだ。己の存在を、何か“違うもの”に変えるようにして。
 ――そのとき、突如、土の下から響くような轟音が耳に入った。
 敵が動き出した。進軍か。それとも、こちらの奇襲を悟ったのか。
 静は、幕の間からわずかに見える影を見つめる。
 甲冑の背に、金の紋。肩に白銀の佩刀。
 その風格からして、おそらく義元の副将格――名ある将に違いなかった。
(ここで仕留めれば、戦況は大きく動く)
 その一手に、迷いはなかった。
 静は剣を握りしめ、身体を低く構えた。
 次の瞬間にはもう、幕を裂いて中に飛び込んでいた。
 幕が裂ける音と同時に、空気が張り詰めた。
 静の白装束が宙を裂き、淡く月の光を浴びたその姿は、もはや人のそれではなかった。
 中にいた男――義元の側近・岡部元信。
 瞬時に剣を引き抜き、迎撃の構えをとる。その動きに迷いはなかった。
「何者――!」
 叫ぶ声が木霊するより速く、静の斬撃が幕舎内を駆けた。
 元信は咄嗟に受け止めたが、剣の衝撃にわずかに体が揺れる。
「白装束……貴様か、噂の“影走り”は!」
 唇が、笑った。
 その一瞬の隙に、静は身を沈め、右から斬り上げる。
 受けると見せかけての肘打ち。脇腹に喰らわせる。
 元信は苦悶の呻きを洩らすが、倒れない。
 ――強い。
 静は思った。
 己の刃が、その芯まで届いていないと知る。
 “討たねばならぬ相手”として現れたのではない。
 “戦局を崩すべき存在”として、ここに立っているのだ。
 敵将の咆哮とともに、周囲の兵たちが一斉に駆け込んでくる。
「囲め! 斬れ!」
 数える間もなく、十を超える足音。
 静は目を伏せる。
 その刹那。
 刀が閃いた。
 白い軌跡が空間を斬り裂き、鮮血が飛び散った。
 叫び声。
 倒れ伏す兵。
 崩れる陣幕。
 混乱の中、静は元信の刀を受け止め、逆にその手を打ち払う。
 相手の刃が地に落ちた。
 ――好機。
 静の身体が沈み、鋭く踏み込む。
 振るった剣が側近・岡部元信の首元を、寸分の狂いなく裂いた。
 男の瞳に驚愕と悔恨が浮かぶ。
 次の瞬間、その命が断たれる。
 倒れ伏す身体を背に、静は息を吐くことなく、佩刀を抜き取った。
 血に濡れたその刀には、家紋の印が刻まれていた。
 「今川家側近・岡部」の名を示す佩刀。
 これは“証”になる。
(……これを、届けなければ)
 だがそのとき、静の背に重みがのしかかった。
「……ッ」
 肩に刃が喰い込む。背後の兵が、命を顧みずに振るった一撃だった。
 深くはない。だが確実に、肉を裂いた。
 静は振り向きざまにその兵を斬る。無表情のまま、息すら吐かずに。
 そしてすぐさま、幕舎を飛び出した。
 火があがる。
 副将の首が飛んだ知らせは、伝令よりも早く、兵の動揺という“波”で陣に広がっていった。
 静は、風のように走った。
 痛みを無視し、白装束の裾を泥に濡らしながら、山道を駆ける。
 呼吸は乱れない。意識も、まだある。
 ただ――血の臭いだけが濃くなっていく。
 右腕の傷からは、絶えず体温が奪われていく。
 皮膚はひりつき、手の感覚が鈍くなっていく。
 それでも、静は止まらなかった。
(届ける。……この剣を、戦況の“鍵”として)
 思考は、それだけに絞られていた。
 やがて、山を抜ける細道に出たとき、夜が明けかけていた。
 遠くで、鳥が鳴いた。
 その声を聞いて、静はふと立ち止まる。
 深く息を吸い、佩刀を見下ろす。
 返り血に濡れた刃の上に、うっすらと朝の光が差し込んでいた。
 それは、まるで。
 “生きて、戻れ”と語りかけるようだった。
 静は目を伏せ、かすかに笑った。
 その笑みの奥にあるのは、戦果の達成でも、自己満足でもない。
 ――それは、蓮と太一の「現在」を守るために走った、ただのひとりの“兵”としての、自分への赦しだった。
 合流地点の火が、遠くに見えた。
 山を抜けた先、切り立った崖の中腹にある小さな窪地。
 地形上、敵に見つかりにくく、味方の集結にも都合がいいとされた場所だ。
 だがそこに至るまでの坂は、重傷者の足にはあまりに険しい。
 静の足取りは、限界に近かった。
 右腕はもう感覚がない。指先は血に濡れ、柄を握る力すら頼りない。
 痛みはとっくに薄れていた。ただ、身体の輪郭が曖昧になっていく。
 一歩、また一歩。
 草を踏み、泥に足を取られながら、それでも前へと進んだ。
 息を吐かずに。
 呻きを洩らさずに。
 誰にも知られず、ただ影のように。
 
 火のそばにいた蓮が、はっと顔を上げた。
「――静……!」
 その声に、太一も立ち上がる。
 ふたりの視線の先。
 白装束の男が、肩で息をしながら立っていた。
 だが、その姿は――あまりに惨い。
 裾は泥に塗れ、右腕からは滴るように血が流れ、髪は首に張りついていた。
 左手に握られているのは、一振りの刀。佩刀。見慣れぬ鍔の意匠。
 そして、顔。
 その顔だけが、やけに澄んでいた。
 蓮が駆け寄る。
 太一も無言で追いつく。
「静……その腕……!」
 応えず、静は佩刀を差し出した。
「今川義元の側近岡部元信のものだと思われます。岡部元信――斬りました」
 それだけを言い終えると、ぐらりと身体が揺れた。
 蓮が支える。太一もすぐに背を預けさせる。
「おい……もう喋るな、今、手当てを――」
「大丈夫です。……誰も、死なずに済みましたから」
 ぽつりと落とされたその言葉に、太一は一瞬、息を呑んだ。
 蓮の表情が動く。
「誰も……?」
 静は微かに頷いた。
 それは自分を含めていない、あまりに穏やかな肯定だった。
「……この刀を、信長さまに。戦況は、変えられると思います。首までは……もう、持ち帰ることはできないと思いました。すみません」
「謝るな!」
 思わず、蓮が声を荒げた。
 静は目を細めて笑う。
「怒るところじゃ、ありませんよ」
 その言葉は冗談のようで、冗談ではなかった。
 太一が静の手を掴む。
「なあ、ちゃんと、痛みはあるんだろ?」
 静は視線を泳がせ、空を見上げる。
「痛み……ですか」
 その問いに、彼は真剣に悩んだ。
 そして、ぽつりと言った。
「もう、分かりません」
 
 その夜、静は火の傍で早々に眠りについた。
 蓮と太一は、交代で彼の傍についた。
 手当ては最小限しかできなかった。動けば傷が開く。だが静は治療を拒んだ。
 蓮はそれを黙って受け入れた。
 夜が更ける。
 火は静かに燃え、雨の気配が遠のいていた。
 太一がぽつりと呟く。
「……なあ、矢野。俺ら、あいつに“死なないでくれ”って言ったよな」
「ああ。言った」
「……少しは届いていたのかな」
 蓮は黙っていた。
 火がぱちりと音を立てる。
 その音だけが、答えだった。
 明け方、静は一度目を開けた。
 まるで夢を見ていたような顔をして。
 誰も、その夢の内容を尋ねることはなかった。
 それが――語られなかった“影走り”の命のかたちだった。
 静が眠る場所には、草の香りが残っていた。
 血の匂いに混じるそれは、彼が“まだここにいる”と告げているようだった。
 夜が明けた。
 霧が、谷の向こうに溜まっている。
 その向こうに、戦場がある。
 まだ戦は始まっていなかった。
 だが、鳥が低く飛び、風が流れを変えている。
 ――風が、騒いでいる。
 蓮は、静の寝顔を見ていた。
 人は、こんな顔を戦場に向けるのかと、思った。
 眉のかたちも、睫毛の先も、いつも通り。なのにそこに、どこか――“帰らぬ者”の気配があった。
「……戻ってこいよ、静」
 声に出したのは、願いではなく、命令に近かった。
 だが、その語調にすら、迷いがあった。
 太一が、背後で槍を肩に担ぎながら呟く。
「聞こえちゃいねぇさ。あいつ、たぶん、もう“向こう”の風に入ってる」
「風、ね……」
「あいつさ。斬るときだけじゃねぇ。もう“生きてる時間”そのものが、風の中なんだよ」
 蓮は太一を見た。
「それでも、俺は信じる。あいつが……帰ってくるって」
「信じるのは勝手だ。けどな――それが重荷になることもある」
 太一はふと、声を落とした。
「……俺は、もう何も望まねぇよ。ただ、あいつが“行きたい場所”に届けばいい」
「それが、死ぬ場所だったとしてもか?」
「――あいつは、最初から“生きて帰る場所”なんてなかったんだよ」
 しばらくの沈黙ののち、蓮は小さく笑った。
 だがそれは、乾いた音だった。
「それでも俺は――あいつに、生きていてほしいんだよ」
 
 静が目を覚ましたのは、それから少し後だった。
 彼は火の消えかけた焚き木を見つめたまま、しばらく黙っていた。
 やがて、その視線が空へと向けられる。
「……風が、止まりましたね」
 その呟きに、太一が反応した。
「止まった、じゃねぇよ。……これから吹くんだろ」
 静は太一の顔を見、微笑んだ。
「ええ、そうですね」
 その笑みに、何の飾りもなかった。
 ただ、終わりを知っている者の、それだった。
 太一が、ふと声を潜める。
「……なあ、静。もう、斬るのは嫌になったか?」
「……嫌、ですか」
 静は、火の方へと視線を落とした。
 小さく、かすかに、頷いた。
「わからないんです。ただ、剣を振るたびに、自分が“何か”から離れていくのを感じます」
「“何か”って?」
 静は応えない。
 代わりに、蓮が言った。
「……お前自身、だろ」
 静は微かに笑った。
「そうかもしれません。けれど、それでも僕は、まだ剣を持っている」
「じゃあ――行くしかねぇな」
 太一が立ち上がる。
 同時に、蓮も立つ。
 そして、静もまた、血の乾いた白装束のまま、最後に腰の白鞘を見下ろして、ゆっくりとその場を離れた。
 風が、戻ってきた。
 今度は、確かな速度で。
 
 谷を越えるその一陣の風の中、三つの影が、音もなく動き出す。
 そしてそれは、誰の目にも見えなかった。
 ――“影走り”は、誰にも気づかれぬまま、命を削りながら、その輪郭を世界に刻み始めていた。