名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第十五話「戦の刻限」

 永禄三年五月十九日。
 朝から、雨が降っていた。
 水を吸った土は、兵の足を重くする。降りしきる雨粒が、兜の鉢に、肩の革に、まるで刻を刻むような音を立てて打ちつけていた。
 織田信長は、清洲城を発ち、善照寺砦に入った。周囲は水を吸った野原、潰れかけた道ばかり。武者たちの声も、馬の嘶きも、すべてが湿気を孕み、重く鈍い。
 だがその中で、静かに立っている一人の男がいた。
 白装束の上に、薄く紺の雨除けを羽織り、傘もささず、ただ風を読むように顔を上げていた。
「……降り続くか、これ」
 矢野蓮が言った。
 隣に立つ沖田静は、少しだけ横を向く。雨が、睫毛にかかっていた。
「やみませんよ。今日は」
「分かるのか?」
「空のにおいで、なんとなく」
「お前、時々、人じゃないみたいなことを言うよな」
「人って、そもそもなんでしょうね」
 さらりと、静は笑った。けれどその笑みに、あの日のような冗談めいた色はなかった。
 今川義元の大軍が動いているという報が入ったのは、つい昨夜だった。すでに大高城には兵糧が届き、鷲津・丸根の両砦も今川軍の圧力を受けている。絶望的な数的不利、二千にも満たぬ織田軍が、二万五千の敵を迎え撃とうというのだ。
「矢野さん。俺たち、何人ですか」
「風走組か? 二十とちょっと」
「じゃあ、二十人の命を背負って、動きます」
「……お前が?」
「いえ。全員が、です」
 風走組は、撹乱と誘導、そして偽装突撃の任を命じられていた。戦の主役ではない。けれど、そこに神の目があるとすれば、戦況を変えるのは、主役ではないところだ。静は、そのことを誰より知っていた。
「……なあ、静」
 矢野は、半歩踏み込んで静の前に出た。
「本当に、死ぬ気か?」
 問うた声は低く、雨に溶けた。静は一瞬、応えず、空を見た。
 雨が、その頬を伝っていたのか、それとも別の何かだったのか、矢野には判別がつかなかった。
「死んでもおかしくないとは思っています。……極力死なないつもりですけど、こればかりは誰にもわかりません」
 それは、まるで祈りのような響きだった。
 矢野は拳を握りしめ、ただ沈黙した。
     ※
 出陣まであと二刻。
 風走組は、野営地に仮設された小屋で装備を整えていた。矢野が腰紐を結ぶ横で、太一が肩をすくめていた。
「……ほんとに出るんだな、これ」
「ああ」
「俺の傷、治ってねえってのに」
「無理はするな」
「俺が出なきゃ、静が前に出る」
 それだけで、十分だった。
 太一の傷は、深い槍傷だった。静に応急処置を受け、矢野の背に背負われて運ばれてから十日――まだ癒えきってはいない。だが、戦には時を選ぶ余裕などなかった。
「俺は、静の盾になる」
 太一が言った。
「それが、今、俺ができる全部だ」
 矢野は、視線を落とした。
「お前が盾なら、俺はなんだろうな」
「なにって……仲間だろ?」
「あいつの。静の名を、戦のあとに残したいんだ。斬って、守って、消えた剣の名前を、誰かが知るべきだ。……そう思ってたんだが、わかんなくなっちまった」
 太一は、それには何も言わなかった。ただ、黙って頷いた。
 そのとき、小屋の戸が軋み、静が入ってきた。
「準備、整いましたか」
 淡々とした声だった。だがその目は、深く澄んでいた。
 矢野と太一は、それぞれの思いを飲み込んだまま、頷いた。
「……静」
 矢野が言った。
「お前、戦の“後”があると思ってるのか?」
「ありません」
 静は、何のためらいもなく答えた。
「僕は、“戦の後”があると思っていないんです」
 その言葉は、恐ろしいほど静かだった。
 太一が口を開きかけたが、言葉にならずに閉じた。矢野もまた、何も言えなかった。
 その夜、静は一人で剣を磨いていた。小屋の片隅、灯の届かぬ闇のなか。
 その白鞘の刀は、まるでこれが“最後の一閃”であるかのように、静かな光を放っていた。
 風が止んだ。
 そして、戦が――始まろうとしていた。
     ※
 夜が明けきらぬうちに、善照寺砦の空気は一変していた。
 雨はなおも静かに降り続いていたが、あたりの空気は澱みを孕み、どこかで誰かが刃を抜いた音が、風に紛れて耳に届く。
 太一が背の短槍を手に取り、刃を丹念に布で拭っていた。
 矢野は脇差の刃文を見つめたまま、じっと動かなかった。
 静は、ただ黙って佇んでいた。何もせず、何も言わず。
 白装束の袖口には、すでに幾度もの戦で染みついた土や血の跡が薄く残っていた。洗っても落ちないのだろう。あるいは、落とす気がなかったのかもしれない。
「……静」
 太一が声をかけた。
「お前さ。怖くないのか」
「怖いですよ」
 即答だった。
「でも、それが僕の輪郭を確かにするんです。恐れなければ、剣を握る手も震えない。震えなければ、それは人じゃない」
「じゃあお前、人間なんだな」
「少なくとも、この手の震えだけは、人間のものです」
 静は、自らの右手を見下ろした。
 僅かに、指先が、震えていた。
 それは微細な、けれど確かに現実に存在する震えだった。
「それが残っているうちは、僕は“剣”じゃなくて、“僕”でいられるんだと思います」
 その言葉に、太一も矢野も、反論できなかった。
     ※
 出陣の刻限が、告げられた。
 風走組の再編部隊、総勢二十七名が集められ、統率役に太一と矢野があたった。静はその一列後方、側面援護の位置。だが、それは表向きの配置であり、実際には静がもっとも速く動けるよう、あえて側面に置かれたというのが正しかった。
 彼の剣は、直線に突撃するのではなく、空白を縫い、戦線を乱すために使われる。
「これより我ら、桶狭間への誘導任に従い、斜面西より南へ降る。敵軍との交戦は極力避け、動きを撹乱し、信長公の進軍を補佐せよ」
 高張提灯に映る矢野の顔は、幾分硬かった。
「……退く者は?」
「いない」
 静が応えた。
 まるで決められていたかのように、誰も異を唱えなかった。
 その瞬間、砦の外に――風が吹いた。
 それは本物の風ではなかった。
 けれど誰もが感じた。肌が粟立ち、脈が早まる、あの空気。
 まるで、何かが始まる瞬間を告げる鐘のように、世界そのものが震えていた。
「行こう」
 静の言葉に、誰もが黙って頷いた。
     ※
 激しい戦闘を終えたその夜、誰もが早くに眠りについた。
 だが、ひとりだけ、白い姿が薄灯の下に残っていた。
 静は、砥石を手に、剣を磨いていた。
 鞘から引き抜いたその白刃は、細い月明かりと灯火を受け、淡い銀に光っていた。
 石の上を滑らせるたび、かすかに水を含んだ音が響く。
 磨きすぎることのない、けれど丁寧で、どこか祈るような手つきだった。
 そこに、太一が現れた。
「……眠れねぇのか?」
「眠るには、まだ刃がざらついていて」
 冗談ともつかない声で、静は応じる。
「戦場で、刃の鈍りは死に直結しますから」
「そういう話じゃねぇよ、静」
 太一が腰を下ろす。二人の間に、焚き火の名残のような熱が揺れていた。
 太一は何も言わなかった。
 代わりに、自分の手元の水筒から酒を一口飲み、静に渡した。
「飲め。今夜くらいは、剣以外のものを喉に通せ」
「……はい」
 静は、それを受け取って口をつけた。
 ぬるい酒だった。けれど、不思議と胸の奥が温かくなった気がした。
 太一は言った。
「なぁ、静。お前が斬った奴らのなかに、“俺”がいたとしても――それでも、お前が帰ってくることを、俺は望むぞ」
 静は驚いた顔をしたが、すぐに目を伏せた。
「ありがとうございます」
 それは、ほとんど囁くような声だった。
     ※
 夜が深くなるにつれ、風は止み、雨音もやんだ。
 明け方に差し掛かる刻限。
 野営地の片隅で、矢野はひとり、剣を帯びて立っていた。
 そこへ静がやってくる。
「……矢野さん」
「もうすぐ、出陣だな」
「はい」
 二人は、短くうなずき合った。
 言葉にすれば壊れてしまいそうな何かが、そこにはあった。
 沈黙ののち、矢野が切り出した。
「もし……もし二人とも生き延びたら、その時は、俺にだけは言え。お前が何を見て、何を斬ったかを」
「……はい」
「約束だぞ」
 静は、ほんの少しだけ、目を細めて笑った。
「約束は、苦手なんですけどね」
「俺もだ。でも今は、それが欲しいんだ」
「なら、矢野さんが生きていたら、僕も約束を守ります」
 矢野は、頷いた。
「いいな、それ」
 その会話が、二人の間に流れた“最後の平穏”だった。
     ※
 夜が明けた。
 軍旗が揺れ、馬のいななきが聞こえ、火薬の匂いと泥濘の匂いが、空気の中で混じり合っていた。
 信長の号令は、静かだった。
 そして、風走組――矢野、太一、静の属する小隊は、斜面の南側より斜陽の中へと出撃していく。
 隊の中で、静は再び“白”を纏っていた。
 血に染まり、泥に塗れ、幾度も洗い直された白装束。それでもまだ“白”の気配を残していた。
 まるでそれが、“何かの印”であるかのように。
 矢野は思う。
 静は、この戦で名を残すことを望んでいない。
 それどころか、名を持つことそのものを恐れているようだった。
 だが、名を遺さずに消えることが“正しさ”なのだろうか。
 その問いだけが、矢野の胸に残っていた。
 ふと、静が矢野の方を向いた。
「矢野さん」
「ん?」
「……“誰かを守るために斬る”なら、それは罪にはならないのでしょうか」
「お前、誰かを守るつもりか」
「分かりません。ただ、今夜は、そう思っていたいだけです」
 その言葉に、矢野は何も言えなかった。
 馬のいななきが重なり、太鼓が打ち鳴らされた。
 風が吹いた。
 戦が、始まろうとしていた。