第十四話「戦火の兆し」
風が止んでいた。
前夜まで荒れていた空模様が嘘のように鎮まり、空は墨を滲ませたような灰色をしていた。朝霧が地を這い、濡れた土が兵たちの足に重く絡みつく。甲冑の継ぎ目には泥が詰まり、槍の柄は湿気を帯びてきしんだ。
その朝、静は、ただ空を見上げていた。
干からびた白装束の袖に指を通し、腰に佩く白鞘の刀に手を添えて、焚き火の赤が残る地べたにしゃがみ込む。火の名残はすでにほとんど失せ、湿った灰に変わっていた。だが、静はその微かな熱を探るように、灰の中に指先を沈めていた。
「……動いたらしい」
背後から低く、抑えた声がした。矢野蓮だった。寝巻のまま火の痕へ歩み寄ると、静の隣に腰を落とした。
「義元本隊が、動いたってことか?」
「……うん。内通者の報せが入った。信長様が、ついに腹を決めたらしい。出るぞ。桶狭間へ」
静は、うっすらと目を伏せるだけだった。
その顔に、安堵も焦燥も浮かんでいない。ただ、風の止んだあとの空を見ていた顔だった。
矢野はその沈黙に一瞬たじろぐ。だが、それが静らしいとも思う。ふいに、足元の地面を蹴った。
「……聞いたか。俺たち、また同じ部隊だ」
「そうなんですか?」
「お前と俺と太一。風走組の残党、寄せ集めみたいな形だけどな。再編されるたびに、こうして一緒になる。なんか……奇妙だな」
「偶然、ですかね」
静はそう言いながらも、まるで否定していない声だった。
そして、しばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「矢野さん……“風”って、読めると思いますか?」
「……なんだそれ」
「“風を読む”って、たまに言うじゃないですか。戦場でも、日常でも。でも風って、たぶん、“読む”もんじゃないんです」
静の眼差しは、再び空の彼方に向けられていた。
その声は穏やかだったが、どこか痛みを含んでいた。
「読むとしたら、“吹く方向”じゃない。読むのは、止む前触れ。……風が止んだとき、何が起きるか、です」
矢野は息をのんだ。
静が何を見ているのか、そのすべてを理解することはできない。けれど、少なくとも今、自分たちが立っているこの朝が、ただの始まりではないことを――終わりに手をかける一歩であることを、矢野もまた本能的に感じ取っていた。
「……俺は」
言いかけて、矢野は言葉を止めた。
静はただ、微かに笑った。
「矢野さん。僕は、“戦の後”があるとは思っていないんです」
その言葉は、焚き火の灰よりも冷たく、風のように静かだった。
※
太一が静に言ったのは、出陣の前夜だった。
火薬の匂いが混じる空気の中、仮設の焚火台の前で、三人は肩を寄せ合っていた。矢野は擦り切れた革の帯を結び直し、静は白装束の裾に付いた泥を指先で払っている。太一は一人、刀の鯉口をわざと強く鳴らし、ふてぶてしく笑った。
「なあ、静」
「はい」
「お前、いつも“斬る”方ばっかやってるけどよ、明日は俺が、お前の盾になる」
静は少し目を見張ったようだったが、すぐに静かな微笑みを浮かべた。
「それは……僕が頼んでいいものなんですか?」
「頼まなくていい。俺が、勝手にそうするってだけだ」
太一は堂々とした態度で言った。
けれど、矢野は知っていた。
太一のその言葉が、どれだけの覚悟から出たものかを。
あの男は、怖がっているのだ。
静が戦場で“人間”でなくなっていくことを。
そして、静がもし本当に“剣”になりきってしまえば――自分たちはもう、彼に手を伸ばせなくなる。
だから、太一は盾になると誓った。
矢野はそれを口には出さない。ただ、自分の帯に手をかけた。
「……俺は、お前の名を、戦のあとに残したいと思ってる」
その言葉に、静が顔を上げた。
「名を?」
「ああ。俺が言ったってどうにもならねえけどな。けど、“風の白鬼”なんて呼び方じゃ、どうにも嫌なんだよ」
静は少しだけ、眉を下げた。
風の音が途切れ、遠くで鳥の鳴く声がした。
やがて、静がぽつりと呟いた。
「……名を残すってことは、誰かの時間に、僕が居たってことになるんですね」
「そうだ」
「それ、ちょっと困ります」
「どうしてだ」
「名は誰かのためのものでしょう? 僕はもう、誰かのために生きていませんから」
静の言葉に、火がぱち、と小さく跳ねた。
矢野は何も言わなかった。太一も黙っていた。
けれど、誰よりも鋭く、静の言葉の重さを感じ取っていたのは矢野だった。
この男は、自分の命が“誰かのため”になってしまうことを、恐れているのだ。
その瞬間から、自分が「剣」ではなく「人」になってしまうから。
矢野は、言葉の代わりに、刀を握った。
「――なら、俺が、お前の名を、憶えている。戦が終わってもだ。俺が死ぬまでな」
それだけを、はっきりと口にした。
静は驚いたように矢野を見た。
そして、ほんの僅かに微笑んだ。
「それは……困りますね」
それきり、三人は言葉を失った。
けれど、その沈黙こそが、三人の誓いだった。
※
軍営の夜は、静かだった。
奇妙なほどに、音がなかった。
兵たちが眠りにつくにはまだ早い刻限であったが、誰もが声を潜め、動作ひとつすら慎重になっていた。明日、この地に血が流れると知っていたからだ。
その中で、静は独り、剣を磨いていた。
白鞘の刀を膝に置き、柔らかな布で丁寧に拭っている。
武器というより、まるで魂そのものを手入れしているような仕草だった。
あの白装束も、煤けてしまったままだ。
幾度の夜襲と斥候任務を繰り返し、もはや雪のような白ではなく、灰と風を吸った“影の色”になっている。
小さな灯火が、彼の横顔を照らす。
長く束ねた髪が風に揺れ、鞘に映る月の光が、彼の眼の奥のものを映した。
その光は、悲しみでも、怒りでもなかった。
ただ――諦念だった。
生きることへの執着でもなく、死を恐れる様でもなく。
その中間、どちらにも傾かぬ、沈黙の色だった。
とつぜん、背後から声がかけられる。
「剣ってのは、そんなに毎晩磨くもんか?」
太一だった。
いつのまにか背後に立ち、木の桶を両手で抱えていた。中には酒の入った徳利が二本。蓋の上には粗く刻まれた干し肉が載せられている。
「せっかくだから、前夜祭ってことでな。ちょっとだけ付き合え」
静は顔を上げ、しかし手は止めなかった。
「誰もが、明日死んでもおかしくないってのに、太一さんは呑気ですね」
「死ぬ前に呑む酒が一番旨え。……それにお前自身が、明日死ぬつもりでいるだろ」
「どうでしょうね。死なないように頑張りますけど、死ぬ可能性は高いです」
「そういう言い方やめろ。矢野が聞いたら怒るぞ」
静はふ、と笑った。
「矢野さんは、僕がどうあっても怒りますから。……優しい人なんです」
その言葉に、太一の表情が変わる。
酒を地面に置き、自分も腰を下ろした。
そして、膝を抱えて呟く。
「静。……お前さ、剣、手放そうと思ったことあるか?」
静は、布を巻いたまま手を止めた。
「……ありますよ」
「そん時、どう思った?」
「“重い”と思いました」
「……剣が?」
「いえ。僕の両手が、です」
太一は返す言葉を失った。
静は布を剥ぎ、鞘に刀身を戻す。
その所作はまるで儀式のようで――剣はまさに、“この世に戻された”かのような佇まいで彼の膝に置かれた。
それは、人を斬る道具ではなかった。
静自身が“そう在る”ことを選んだ、彼の分身だった。
「僕が斬るのは、敵でも名誉でもない。……たぶん、自分自身です」
その言葉に、太一は拳を強く握った。
言葉にできない、もどかしさと痛みが心を覆う。
けれど、どうしても言いたかった一言だけは、届かせた。
「明日、俺が、お前を守る。……他ではない、お前さん自身をな」
静は、顔を上げて笑った。
その笑顔には、ほんの僅かに――泣きそうな影があった。
※
翌朝、空が白み始めるよりも前に、風走組には出陣の命が下された。
小隊長たちが忙しく伝令を受け取り、各隊士の装備点検が行われる。
空気は、張りつめていた。
兵たちの眼に恐れがあるのは当然だった。誰もが、今日が最期になるかもしれないと知っていた。
矢野は、すでに鎧の紐を締め終えていた。
その眼はまっすぐに前を向いている。けれど、脳裏に浮かんでいたのは、あの夜、静が見せた“諦念”の瞳だった。
太一が後方から声をかける。
「準備、万端って顔してんな。……さすがだな」
矢野は振り返り、かすかに笑った。
「震えたら、死ぬ気がしたんだよ」
その言葉に、太一は無言でうなずく。
二人の会話に割って入るようにして、静が現れた。
煤けた白装束に、新しい裂け目がある。おそらく、前夜に縫ったのだろう。縫い目は粗いが、正確だった。
髪は束ね直され、刀は背に負われている。
その姿はまるで、祭壇に捧げられた“供物”のように清らかで、物悲しかった。
太一が静を見て、唇を噛んだ。
「なあ、静。今からでも、もう少し後方の配置に回してもらおうか」
「無理ですよ、太一さん。僕、“いちばん先に斬る人”ですから」
「……笑い事じゃねえぞ」
「はい。笑ってません。……これでも真剣です」
静の声には、変な熱も、焦りもなかった。
ただ一つだけ――透明な覚悟が、静かに、彼を包んでいた。
その時、小隊長が駆けてきた。
「配置、伝える! 風走組は、斜面北側の第二列、奇襲側の先導だ! “例の剣士”を中心に、四名展開!」
“例の剣士”――
その呼び方に、誰もが無言のまま頷いた。
静は、自分のことだと理解していた。
“沖田”の名を呼ぶ者はいない。それが当然だった。
名があれば、人になる。
名がなければ、ただの影だ。
彼はそれを、望んでいた。
矢野は、理解しようとした。けれど、理解できないと知っていた。
隊は動き始める。
地面の揺れが、遠くから近づいてくる。
今川軍が動いた証だ。
斥候が報告を持って走る。
「今川本隊、桶狭間の谷間を北上中! 標高差三丈! 今なら上から討てます!」
戦機到来。
織田軍は、このわずかな好機にすべてを懸ける。
「風を、読むんだ」
静がぽつりと呟く。
誰に向けた言葉でもなかった。ただ風の中に、彼は“死なない道”を探していた。
矢野は、その後ろ姿に、何かを叫びかけようとした。
だが、言葉は声にならなかった。
剣を携え、影は、前へと歩いていく。
風が――止んだ。
それはまるで、戦が静を中心に始まることを、世界が知っているかのようだった。
風が止んでいた。
前夜まで荒れていた空模様が嘘のように鎮まり、空は墨を滲ませたような灰色をしていた。朝霧が地を這い、濡れた土が兵たちの足に重く絡みつく。甲冑の継ぎ目には泥が詰まり、槍の柄は湿気を帯びてきしんだ。
その朝、静は、ただ空を見上げていた。
干からびた白装束の袖に指を通し、腰に佩く白鞘の刀に手を添えて、焚き火の赤が残る地べたにしゃがみ込む。火の名残はすでにほとんど失せ、湿った灰に変わっていた。だが、静はその微かな熱を探るように、灰の中に指先を沈めていた。
「……動いたらしい」
背後から低く、抑えた声がした。矢野蓮だった。寝巻のまま火の痕へ歩み寄ると、静の隣に腰を落とした。
「義元本隊が、動いたってことか?」
「……うん。内通者の報せが入った。信長様が、ついに腹を決めたらしい。出るぞ。桶狭間へ」
静は、うっすらと目を伏せるだけだった。
その顔に、安堵も焦燥も浮かんでいない。ただ、風の止んだあとの空を見ていた顔だった。
矢野はその沈黙に一瞬たじろぐ。だが、それが静らしいとも思う。ふいに、足元の地面を蹴った。
「……聞いたか。俺たち、また同じ部隊だ」
「そうなんですか?」
「お前と俺と太一。風走組の残党、寄せ集めみたいな形だけどな。再編されるたびに、こうして一緒になる。なんか……奇妙だな」
「偶然、ですかね」
静はそう言いながらも、まるで否定していない声だった。
そして、しばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「矢野さん……“風”って、読めると思いますか?」
「……なんだそれ」
「“風を読む”って、たまに言うじゃないですか。戦場でも、日常でも。でも風って、たぶん、“読む”もんじゃないんです」
静の眼差しは、再び空の彼方に向けられていた。
その声は穏やかだったが、どこか痛みを含んでいた。
「読むとしたら、“吹く方向”じゃない。読むのは、止む前触れ。……風が止んだとき、何が起きるか、です」
矢野は息をのんだ。
静が何を見ているのか、そのすべてを理解することはできない。けれど、少なくとも今、自分たちが立っているこの朝が、ただの始まりではないことを――終わりに手をかける一歩であることを、矢野もまた本能的に感じ取っていた。
「……俺は」
言いかけて、矢野は言葉を止めた。
静はただ、微かに笑った。
「矢野さん。僕は、“戦の後”があるとは思っていないんです」
その言葉は、焚き火の灰よりも冷たく、風のように静かだった。
※
太一が静に言ったのは、出陣の前夜だった。
火薬の匂いが混じる空気の中、仮設の焚火台の前で、三人は肩を寄せ合っていた。矢野は擦り切れた革の帯を結び直し、静は白装束の裾に付いた泥を指先で払っている。太一は一人、刀の鯉口をわざと強く鳴らし、ふてぶてしく笑った。
「なあ、静」
「はい」
「お前、いつも“斬る”方ばっかやってるけどよ、明日は俺が、お前の盾になる」
静は少し目を見張ったようだったが、すぐに静かな微笑みを浮かべた。
「それは……僕が頼んでいいものなんですか?」
「頼まなくていい。俺が、勝手にそうするってだけだ」
太一は堂々とした態度で言った。
けれど、矢野は知っていた。
太一のその言葉が、どれだけの覚悟から出たものかを。
あの男は、怖がっているのだ。
静が戦場で“人間”でなくなっていくことを。
そして、静がもし本当に“剣”になりきってしまえば――自分たちはもう、彼に手を伸ばせなくなる。
だから、太一は盾になると誓った。
矢野はそれを口には出さない。ただ、自分の帯に手をかけた。
「……俺は、お前の名を、戦のあとに残したいと思ってる」
その言葉に、静が顔を上げた。
「名を?」
「ああ。俺が言ったってどうにもならねえけどな。けど、“風の白鬼”なんて呼び方じゃ、どうにも嫌なんだよ」
静は少しだけ、眉を下げた。
風の音が途切れ、遠くで鳥の鳴く声がした。
やがて、静がぽつりと呟いた。
「……名を残すってことは、誰かの時間に、僕が居たってことになるんですね」
「そうだ」
「それ、ちょっと困ります」
「どうしてだ」
「名は誰かのためのものでしょう? 僕はもう、誰かのために生きていませんから」
静の言葉に、火がぱち、と小さく跳ねた。
矢野は何も言わなかった。太一も黙っていた。
けれど、誰よりも鋭く、静の言葉の重さを感じ取っていたのは矢野だった。
この男は、自分の命が“誰かのため”になってしまうことを、恐れているのだ。
その瞬間から、自分が「剣」ではなく「人」になってしまうから。
矢野は、言葉の代わりに、刀を握った。
「――なら、俺が、お前の名を、憶えている。戦が終わってもだ。俺が死ぬまでな」
それだけを、はっきりと口にした。
静は驚いたように矢野を見た。
そして、ほんの僅かに微笑んだ。
「それは……困りますね」
それきり、三人は言葉を失った。
けれど、その沈黙こそが、三人の誓いだった。
※
軍営の夜は、静かだった。
奇妙なほどに、音がなかった。
兵たちが眠りにつくにはまだ早い刻限であったが、誰もが声を潜め、動作ひとつすら慎重になっていた。明日、この地に血が流れると知っていたからだ。
その中で、静は独り、剣を磨いていた。
白鞘の刀を膝に置き、柔らかな布で丁寧に拭っている。
武器というより、まるで魂そのものを手入れしているような仕草だった。
あの白装束も、煤けてしまったままだ。
幾度の夜襲と斥候任務を繰り返し、もはや雪のような白ではなく、灰と風を吸った“影の色”になっている。
小さな灯火が、彼の横顔を照らす。
長く束ねた髪が風に揺れ、鞘に映る月の光が、彼の眼の奥のものを映した。
その光は、悲しみでも、怒りでもなかった。
ただ――諦念だった。
生きることへの執着でもなく、死を恐れる様でもなく。
その中間、どちらにも傾かぬ、沈黙の色だった。
とつぜん、背後から声がかけられる。
「剣ってのは、そんなに毎晩磨くもんか?」
太一だった。
いつのまにか背後に立ち、木の桶を両手で抱えていた。中には酒の入った徳利が二本。蓋の上には粗く刻まれた干し肉が載せられている。
「せっかくだから、前夜祭ってことでな。ちょっとだけ付き合え」
静は顔を上げ、しかし手は止めなかった。
「誰もが、明日死んでもおかしくないってのに、太一さんは呑気ですね」
「死ぬ前に呑む酒が一番旨え。……それにお前自身が、明日死ぬつもりでいるだろ」
「どうでしょうね。死なないように頑張りますけど、死ぬ可能性は高いです」
「そういう言い方やめろ。矢野が聞いたら怒るぞ」
静はふ、と笑った。
「矢野さんは、僕がどうあっても怒りますから。……優しい人なんです」
その言葉に、太一の表情が変わる。
酒を地面に置き、自分も腰を下ろした。
そして、膝を抱えて呟く。
「静。……お前さ、剣、手放そうと思ったことあるか?」
静は、布を巻いたまま手を止めた。
「……ありますよ」
「そん時、どう思った?」
「“重い”と思いました」
「……剣が?」
「いえ。僕の両手が、です」
太一は返す言葉を失った。
静は布を剥ぎ、鞘に刀身を戻す。
その所作はまるで儀式のようで――剣はまさに、“この世に戻された”かのような佇まいで彼の膝に置かれた。
それは、人を斬る道具ではなかった。
静自身が“そう在る”ことを選んだ、彼の分身だった。
「僕が斬るのは、敵でも名誉でもない。……たぶん、自分自身です」
その言葉に、太一は拳を強く握った。
言葉にできない、もどかしさと痛みが心を覆う。
けれど、どうしても言いたかった一言だけは、届かせた。
「明日、俺が、お前を守る。……他ではない、お前さん自身をな」
静は、顔を上げて笑った。
その笑顔には、ほんの僅かに――泣きそうな影があった。
※
翌朝、空が白み始めるよりも前に、風走組には出陣の命が下された。
小隊長たちが忙しく伝令を受け取り、各隊士の装備点検が行われる。
空気は、張りつめていた。
兵たちの眼に恐れがあるのは当然だった。誰もが、今日が最期になるかもしれないと知っていた。
矢野は、すでに鎧の紐を締め終えていた。
その眼はまっすぐに前を向いている。けれど、脳裏に浮かんでいたのは、あの夜、静が見せた“諦念”の瞳だった。
太一が後方から声をかける。
「準備、万端って顔してんな。……さすがだな」
矢野は振り返り、かすかに笑った。
「震えたら、死ぬ気がしたんだよ」
その言葉に、太一は無言でうなずく。
二人の会話に割って入るようにして、静が現れた。
煤けた白装束に、新しい裂け目がある。おそらく、前夜に縫ったのだろう。縫い目は粗いが、正確だった。
髪は束ね直され、刀は背に負われている。
その姿はまるで、祭壇に捧げられた“供物”のように清らかで、物悲しかった。
太一が静を見て、唇を噛んだ。
「なあ、静。今からでも、もう少し後方の配置に回してもらおうか」
「無理ですよ、太一さん。僕、“いちばん先に斬る人”ですから」
「……笑い事じゃねえぞ」
「はい。笑ってません。……これでも真剣です」
静の声には、変な熱も、焦りもなかった。
ただ一つだけ――透明な覚悟が、静かに、彼を包んでいた。
その時、小隊長が駆けてきた。
「配置、伝える! 風走組は、斜面北側の第二列、奇襲側の先導だ! “例の剣士”を中心に、四名展開!」
“例の剣士”――
その呼び方に、誰もが無言のまま頷いた。
静は、自分のことだと理解していた。
“沖田”の名を呼ぶ者はいない。それが当然だった。
名があれば、人になる。
名がなければ、ただの影だ。
彼はそれを、望んでいた。
矢野は、理解しようとした。けれど、理解できないと知っていた。
隊は動き始める。
地面の揺れが、遠くから近づいてくる。
今川軍が動いた証だ。
斥候が報告を持って走る。
「今川本隊、桶狭間の谷間を北上中! 標高差三丈! 今なら上から討てます!」
戦機到来。
織田軍は、このわずかな好機にすべてを懸ける。
「風を、読むんだ」
静がぽつりと呟く。
誰に向けた言葉でもなかった。ただ風の中に、彼は“死なない道”を探していた。
矢野は、その後ろ姿に、何かを叫びかけようとした。
だが、言葉は声にならなかった。
剣を携え、影は、前へと歩いていく。
風が――止んだ。
それはまるで、戦が静を中心に始まることを、世界が知っているかのようだった。



