第十三話「帰還と沈黙」
その夜、風は止んでいた。
まるで誰かが、この地に吹くはずの風を、どこかへ連れ去ってしまったかのように。
矢野蓮は、火の気の絶えた焚火の前に座り、何度も何度も手のひらをこすり合わせていた。もう冷え切っているはずの手は、なぜか熱かった。
佩刀は、自らの左脇に。地に横たえたその柄先を、じっと見つめていた。
火の粉の名残も、湿った煙のにおいも、あの夜とよく似ていた。あの夜――静が命を救ってくれた、あの夜だ。
「なあ、太一」
ぽつりと呼びかけると、背後の影が肩越しにゆっくりと応えた。
「あん?」
「静が帰ってきたとして……俺たち、どう接すればいいんだろうな」
太一はしばらく黙っていた。
夜の沈黙がそのまま会話の継ぎ目になっていく。やがて、彼は腰を下ろし、焚火の灰をひとつかみ拾った。手のひらで揉み砕くようにしながら、ぼそりと言う。
「たぶん――何も言わなくていい。ただ、そこにいてくれれば。それで十分なんだと思う」
灰が舞い、風もないのにひとひら、空へと消えた。
「でも、静は……」
矢野が言葉を継ぎかけたとき、営舎の遠く、まだ見えない暗がりの向こうから、何かが“返ってくる”ような音がした。
――しゃり……しゃり。
草履が、乾いた地面を踏みしめる音だった。
矢野も、太一も、無言のまま振り返った。
その音が近づいてくる。
音だけが先に届く。姿はまだない。けれど、わかる。わかってしまう。
その足音のリズムも、その歩幅の均一さも――そして、ただひとつの剣の音も。
音が止んだ。
そして、彼はいた。
白装束は煤け、袖は破れ、右腕には深く巻かれた即席の包帯が、血に染まっていた。髪も乱れていた。けれど、その眼差しだけは――清冽だった。何者の言葉も届かぬような、あるいは、すべての言葉を拒むような、静かな光を湛えていた。
矢野が立ち上がった。太一もそれに倣う。
静は、彼らを見た。
微かに、口の端が揺れた気がした。だが、その表情が笑みかどうか、誰にもわからなかった。
「――ただいま、戻りました」
それだけを言うと、静は彼らの脇をすり抜けた。まるでその言葉すら、誰かに命じられて口にしただけのように、ひどくよそよそしく、機械的な声だった。
矢野は追いかけた。
静が寝具のある一角に身を伏せようとした瞬間、肩を掴んで引き戻した。
「待て。……静、お前、何があった?」
静は振り返らなかった。
「誰も、死なずに済みました。それでいいじゃないですか」
「それで済むか」
語調が強まった。矢野はその背に迫る。
「お前がこの二日間、どこにいたのか。なぜ戻らなかったのか。誰も知らない。お前自身が、それを語ろうとしないなら……!」
静は、ようやく振り返った。
その顔は、どこまでも冷ややかで、同時に、どこか“哀れ”だった。
「……矢野さんなら、わかるはずです」
その瞬間、矢野の胸中に、かつて見た“剣としての沖田静”の姿がよみがえった。
何も持たず、何も語らず、ただ“剣”として存在することに徹していたあの背中。誰かの名も、誰かの想いも、自らに背負わせないように、すべてを斬り捨ててきた姿。
――だが、違う。
「わかるわけないだろ。俺は、お前じゃない」
吐き捨てるように言った。声が震えた。
静のまなざしが、ほんの一瞬揺れた。
「……僕も、僕が何なのか、もう分かりません」
その声は、まるで自分に向けた言葉のようだった。
矢野は言葉を継げなかった。喉がつまった。何かを言えば、そのまま崩れてしまうような気がした。
その場に立ち尽くす二人の間に、風が吹いた。
ようやく戻ってきた、戦場の風だった。
それは、どこか“告げる”風だった。
何かが終わろうとしていること。
あるいは、何かが、もう戻らないということを――。
矢野はそっと、静の佩刀を床に置いた。
「お前が、誰かを殺して生き延びたなら、俺はそれを責めない。でも、お前が自分を“殺した”なら――俺は許さない」
静は、何も答えなかった。
ただ、その右手が一瞬、佩刀に伸びかけて、そこで止まった。
まるで、それがもう“自分のものではない”と知っているかのように。
――そして、夜が明けた。
その夜、風は止んでいた。
まるで誰かが、この地に吹くはずの風を、どこかへ連れ去ってしまったかのように。
矢野蓮は、火の気の絶えた焚火の前に座り、何度も何度も手のひらをこすり合わせていた。もう冷え切っているはずの手は、なぜか熱かった。
佩刀は、自らの左脇に。地に横たえたその柄先を、じっと見つめていた。
火の粉の名残も、湿った煙のにおいも、あの夜とよく似ていた。あの夜――静が命を救ってくれた、あの夜だ。
「なあ、太一」
ぽつりと呼びかけると、背後の影が肩越しにゆっくりと応えた。
「あん?」
「静が帰ってきたとして……俺たち、どう接すればいいんだろうな」
太一はしばらく黙っていた。
夜の沈黙がそのまま会話の継ぎ目になっていく。やがて、彼は腰を下ろし、焚火の灰をひとつかみ拾った。手のひらで揉み砕くようにしながら、ぼそりと言う。
「たぶん――何も言わなくていい。ただ、そこにいてくれれば。それで十分なんだと思う」
灰が舞い、風もないのにひとひら、空へと消えた。
「でも、静は……」
矢野が言葉を継ぎかけたとき、営舎の遠く、まだ見えない暗がりの向こうから、何かが“返ってくる”ような音がした。
――しゃり……しゃり。
草履が、乾いた地面を踏みしめる音だった。
矢野も、太一も、無言のまま振り返った。
その音が近づいてくる。
音だけが先に届く。姿はまだない。けれど、わかる。わかってしまう。
その足音のリズムも、その歩幅の均一さも――そして、ただひとつの剣の音も。
音が止んだ。
そして、彼はいた。
白装束は煤け、袖は破れ、右腕には深く巻かれた即席の包帯が、血に染まっていた。髪も乱れていた。けれど、その眼差しだけは――清冽だった。何者の言葉も届かぬような、あるいは、すべての言葉を拒むような、静かな光を湛えていた。
矢野が立ち上がった。太一もそれに倣う。
静は、彼らを見た。
微かに、口の端が揺れた気がした。だが、その表情が笑みかどうか、誰にもわからなかった。
「――ただいま、戻りました」
それだけを言うと、静は彼らの脇をすり抜けた。まるでその言葉すら、誰かに命じられて口にしただけのように、ひどくよそよそしく、機械的な声だった。
矢野は追いかけた。
静が寝具のある一角に身を伏せようとした瞬間、肩を掴んで引き戻した。
「待て。……静、お前、何があった?」
静は振り返らなかった。
「誰も、死なずに済みました。それでいいじゃないですか」
「それで済むか」
語調が強まった。矢野はその背に迫る。
「お前がこの二日間、どこにいたのか。なぜ戻らなかったのか。誰も知らない。お前自身が、それを語ろうとしないなら……!」
静は、ようやく振り返った。
その顔は、どこまでも冷ややかで、同時に、どこか“哀れ”だった。
「……矢野さんなら、わかるはずです」
その瞬間、矢野の胸中に、かつて見た“剣としての沖田静”の姿がよみがえった。
何も持たず、何も語らず、ただ“剣”として存在することに徹していたあの背中。誰かの名も、誰かの想いも、自らに背負わせないように、すべてを斬り捨ててきた姿。
――だが、違う。
「わかるわけないだろ。俺は、お前じゃない」
吐き捨てるように言った。声が震えた。
静のまなざしが、ほんの一瞬揺れた。
「……僕も、僕が何なのか、もう分かりません」
その声は、まるで自分に向けた言葉のようだった。
矢野は言葉を継げなかった。喉がつまった。何かを言えば、そのまま崩れてしまうような気がした。
その場に立ち尽くす二人の間に、風が吹いた。
ようやく戻ってきた、戦場の風だった。
それは、どこか“告げる”風だった。
何かが終わろうとしていること。
あるいは、何かが、もう戻らないということを――。
矢野はそっと、静の佩刀を床に置いた。
「お前が、誰かを殺して生き延びたなら、俺はそれを責めない。でも、お前が自分を“殺した”なら――俺は許さない」
静は、何も答えなかった。
ただ、その右手が一瞬、佩刀に伸びかけて、そこで止まった。
まるで、それがもう“自分のものではない”と知っているかのように。
――そして、夜が明けた。



