名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第十二話「消息なき剣」

 夜が明けても、空は濃い灰色のままだった。雲の奥に陽はあるのだろうが、地上には一向にその気配が差し込まない。戦の前触れとしての雨ではなく、ただ湿りを纏った空気が、陣中のあらゆるものをじわじわと濡らしていた。
 その朝、風走組の一角では不穏なざわめきが続いていた。
「……二日目です」
 声を潜めた若い兵の言葉に、隣の男が唇を噛む。
「探しは出したんだろ? 本当に斬り込みに行ったのか、静は」
「見た者がいる。夜明け前に、南方の藪へひとり、歩いて行ったって」
「それが最後か」
 濡れた地面に膝をつくように、会話も落ちた。
 誰もが口にしないが、理解していた。「消息不明」は、戦場では「死」と同義である。生きている者が声を発し、死者は沈黙のなかにある。名を持たぬ者ならなおさらだった。
 矢野蓮は、その沈黙の中心にいた。
 白装束の剣士――沖田静が、二日前の夜を最後に、姿を消した。
 彼の行き先も、命も、確認されていない。
 ただ、南方の林の外れにて、焦げたように黒ずんだ白布の切れ端と、干からびた血の跡が見つかった。
 それがすべてだった。
(……だが、静は死んでなどいない)
 矢野は、そう思っていた。理屈ではなかった。いや、むしろ理屈で考えれば、静が生きて帰れる道理のほうがなかった。単独での潜入。補給も救援もなし。敵地で斬り合い、生きて戻った例など、数えるほどしかない。
 だが、それでも。
 あの夜、別れ際に見た目を、矢野は覚えていた。
 静は振り向きざまに、わずかに微笑んだのだ。冷たさも、諦めもなかった。むしろ、その笑みにだけ、“まだ在る者”の呼吸が宿っていた。
 ――あの剣は、殺されはしない。
 静は、死にに行ったのではない。消えるために、姿を隠したのでもない。ただ、何かを背負って、夜のなかに足を踏み入れたのだ。
 そして矢野は、信じることを選んでいた。
 静は、まだ“そこ”にいると。
「戻ってきますよ、あの人は」
 焚火のそばで、太一がぽつりと呟いた。
 声は低く、抑えていたが、その言葉には確かな意志がこもっていた。
 手当てを受けたばかりの太一の腹には、まだ包帯が巻かれていた。深い槍傷だったが、命に別状はない。だが、身体以上に沈んでいるのは、その目だった。
 誰かが声をかけようとしたが、矢野はそれを制した。
 太一は、静の強さを信じていた。剣の腕でも、人としての在り様でも、心のどこかで“追いかけていた”のだ。だからこそ、今、彼は苦しんでいる。声をかければ、かえってそれが崩れると、矢野にはわかった。
「太一」
 矢野が、火を見つめながら口を開いた。
「……まる二日ってのは、長い。俺も、静が生きてると思ってる。でも、それと、無事でいるかは別の話だ」
 太一は顔を上げた。眼差しは沈んでいたが、迷いはなかった。
「でも、あの人の剣は、俺たちの知ってる剣じゃない」
「……ああ」
「俺は……戦場で、あれだけの敵に囲まれて、正直、もう終わりだと思った。でも気づいたら、生きてた。あの人が、俺を繋いでくれた」
 それは、あの斥候の夜――太一が倒れ、静が応急処置をして、矢野が背負って戻った日。
 太一の命がこぼれる瀬戸際に、静は無言で布を裂き、血を止め、背中を押してくれた。その手の温度だけは、今も忘れていない。
「だから、俺は信じる。戻ってくるまで、信じる」
 矢野は、黙って頷いた。
 ――その信念こそが、今の太一を支えているのだと。
 人は、信じることでようやく立てる。絶望の中ではなく、“まだ終わっていない”という希望の中でこそ、歩みは始まるのだ。
 静の消息が絶たれた陣のなかで、太一の沈黙は、ひとつの灯のように淡く、そして確かに燃えていた。
     ※

 風走組の若い兵たちの間で、ある種の空気が広がっていた。
 それは、喪失による空白ではなかった。もっと、言葉にしがたいもの――恐れと畏れが、入り混じったものだった。
「……やっぱり、あの人は“人”じゃなかったんだ」
 誰かが呟いた。
「夜に消えて、二日も戻らない。斬った敵の数は、十か二十かじゃないって。……こんな話、本当にあるか?」
「いや……だからこそ、ありうるんだろ」
 小さな会話の積み重ねが、やがて“語り”に変わっていく。
 彼の剣は、名を持たぬ。
 誰を守るとも、誰のためでもなく、ただ風のように斬って去る。
 その姿は白い鬼。夜の闇に紛れ、敵陣を裂いて駆け抜ける影。
 やがて「沖田静」という名が語られなくなっていくのに、そう時間はかからなかった。
 彼はもう、“人”ではなく、“現象”として語られ始めていた。
 矢野は、その変化を苦々しく見ていた。
(静は……そんな曖昧なものじゃない。人間だ。血も流すし、笑うことも、迷うこともある)
 しかし、戦場の言葉は、冷酷で速かった。
 名を持たぬ剣が、“名を捨てた剣”として語られるようになるには、たった数日の空白で十分だった。
 そんななか、ひとつの報せが入った。
「……南の斥候が戻りました。静さんらしき遺留品を確認とのことです」
 矢野は、鼓動が跳ね上がるのを感じながら、現地へ急行した。
 辿りついたのは、鬱蒼とした林の中。
 そこには、朽ちた木の根元に、ぼろぼろになった白い布の切れ端が落ちていた。
 そして、土にまみれた佩刀の柄だけが、草むらの間に埋もれていた。
 柄に巻かれた組紐は、たしかに静のものだった。
 矢野は、それを拾い上げた。
 握った瞬間、血の気が引くような冷たさが、掌に走った。
 柄は、まだ“温もり”を残していた。
 ――斬ったのではない。これは、誰かを守って、手放されたのだ。
「……あいつは、生きてる」
 矢野の声は低かったが、確信を含んでいた。
「この刀が、それを知ってる」
 風が、音もなく木々を揺らしていた。
 それはまるで、誰かの名を持たぬ刃が、まだこの森のどこかで息をしているかのようだった。
     ※
 風が止んでいた。
 矢野蓮は、静の佩刀の柄を両手で包むように握りしめ、その場に膝をついた。
 傍らに立つ太一は、腹の傷を庇いながらも黙って見ていた。何も言わない。言葉にできることなどなかった。
 佩刀の柄には、血が乾き、土が固まり、ところどころに人の汗と手垢がこびりついていた。だがそれは、たしかに彼のものだった。矢野が幾度となく見てきた、戦の前に静がその手で撫で、調えていた柄だった。
「生きてるんだな……」
 呟きは、自らに言い聞かせるような響きを帯びていた。
 太一が、やがて声を絞り出す。
「矢野……仮に、生きてたとしても……奴は、もう戻ってこないかもしれねぇ」
「わかってる」
 即答だった。だが、その声音には苦味があった。
 「わかってる。あいつは、ずっとそういう奴だった。誰かに名を与えられず、誰にも縛られず、自分を“剣”としてしか扱ってこなかった。俺たちがどれだけ名前で呼んでも、あいつの本質は変わらなかった」
 風が一陣、草の海を渡っていった。
「でも……」
 矢野は立ち上がった。佩刀の柄を腰に差し、まるで今なお“剣”としてそこに在るかのように。
「俺は、死なせない。生きていてほしい。いや……そうじゃない」
 その目に、太一は戦場で見たことのない色を見た。熱、焦がすような執念が、そこに宿っていた。
「“静”が、名を持たぬまま終わるのが許せないんだ。あいつが死んでもいいと思ってるわけじゃない。むしろ――死なせるわけにはいかない」
 太一は眉をひそめた。だがそれは、反論ではなく、痛みに近かった。
「……お前、まるで“あいつに名を与えるために”戦ってるみてぇだな」
 矢野はそれを否定しなかった。
 その夜、風走組の営舎では、誰も静の話をしなかった。
 白装束の剣士の話題は、まるで禁忌のように避けられていた。戦の只中において、“姿を消した者”の名を口にすることは、忌み事とされたからだ。
 だが、矢野の中では逆だった。
 彼の不在こそが、彼を形作っていた。
 姿が見えなくとも、名が呼ばれなくとも、あの剣の“風”は、まだこの陣地を吹き抜けていた。
 矢野は、自分の中に宿った想いを、ひとつの言葉に変えて噛みしめた。
 ――死なせない。忘れさせない。名を、残す。
 誰も言わなければ、自分が言う。
 誰も覚えていなければ、自分が憶えている。
 そしてもし、彼が還ってきたならば――
 そのときこそ、自分の中で決めていた言葉を、真正面から伝えようと。
「静、お前の名は、“名もなき剣”じゃない」
 そのとき、白い霧の向こうから、何かがひとつ、こちらを見ていた気がした。
 矢野は目を閉じ、剣を握った。血も、戦も、言葉もない場所で、ただ静の姿を思い浮かべる。
 その姿は、焚火の火影のようにゆらぎ、そして、遠くで風が鳴いた。
 ――その風の音に、矢野は確かに、あの“声”を聞いた気がした。