第九話「太一の血」
――雨の匂いが、まだ残っていた。
夜半には止んだというのに、尾張の地を這うように湿った空気が肌にまとわりつく。足元はぬかるみ、草の葉に溜まった水滴が風に煽られては、兵たちの肩を静かに濡らしていく。
矢野蓮は、そのぬかるみを踏みしめながら、視線を前に投げていた。歩幅を変えず、背中を丸めず、ただ前を見据えて。
その隣には静がいた。相変わらず、白装束の裾は泥で汚れ、顔には仮面のような無表情が張り付いている。だが矢野は知っていた。沈黙の奥に、言葉にならない感情が、確かに在ることを。
「……静」
声をかけようとした瞬間だった。
風走組の駐屯地に設けられた仮設の伝令所から、駆け足の兵が一人、泥を跳ね上げながら走ってきた。
「――斥候組の所在が不明だ! 先刻、通信が断たれたとの報!」
矢野は反射的に一歩踏み出していた。
「誰が行ってるんだ」
「……高山太一を含む五名、南東の林地帯です!」
その名を聞いた瞬間、矢野の脳裏を稲妻が駆け抜けた。
高山太一――静より四つ年上の男。風走組でも随一の力持ちで、粗野で飄々としているが、戦場では頼れる兄貴分だ。静に対しても物怖じせずに接し、笑っては、「あの顔でちゃんと人間らしいとこあるんだよ、あいつ」と言っていた男だった。
矢野は駆けた。泥に足を取られるのも構わず、ただ前へ。
その後ろを、何も言わずに静がついてくる。ふたりはすぐさま小部隊を編成しようとしたが、指揮官の一人が言った。
「今、他の隊は動けん。待て、敵の数も不明だ」
その判断は理に適っていた。だが、矢野はわずかに睨んで、はっきり言った。
「俺が行く。静も一緒だ。あいつは、俺の――仲間だ」
言いながら、自分でも“友”という言葉を選べなかったことに、胸が痛んだ。
けれど、静は何も言わなかった。ただ、その瞳にうっすらと光を宿し、頷いた。
*
林の入り口は、湿った緑に沈黙していた。鳥も鳴かず、風もなく、ただ空気だけがじとりと重い。
静が前を歩く。彼の歩みは一貫して静かで、まるで地を滑るようだった。矢野はその背に付いていく。剣の柄に手を置きながら、視線を左右に巡らせる。
ふいに、静が片手をあげて制止の合図をした。
林の奥――何かが光った。
剣だ。刃の反射。
ふたりは目配せを交わし、瞬時に木陰へと身を隠す。
そこには、斥候のうち二人の遺体があった。倒れ方から見て、急襲に遭ったのは明らかだった。胴を裂かれたひとりの顔には、恐怖と無念が張り付いたまま、凍りついている。
矢野が近づこうとしたそのとき――
「矢野さん、右です」
静の声が、木の幹越しに落ちてきた。
矢野は反射的に身を低くし、右に剣を振った。刃が空を切ると同時に、背後から現れた敵兵が驚愕に目を見開いたまま、斜めに斬り伏せられる。
直後、矢野は木々の間に、さらに三人の敵影を見た。
戦だ。否、これはすでに“戦”というには小さすぎる。これは“殺し”だ。
静が一歩前に出る。その姿が、薄曇りの林の中で淡く発光して見えた。
次の瞬間には、静の白装束が舞い、敵のうち二人が血を噴いて倒れていた。
残るひとりが恐慌に駆られて逃げようとしたその背を、静の投擲した小太刀が貫いた。
あたりに、再び沈黙が戻る。
矢野は息を整え、ふと、木の根元に何かを見つけた。
――赤い布だ。
それが誰のものか、見間違えるはずがない。
駆け寄った先に、彼は見た。
斥候の遺体の山の中で、膝をついたまま動かない男がひとり。
「……太一!」
太一は、地面に両膝をついた姿勢のまま、前に倒れかけていた。
頭は下がり、肩が不自然に落ちている。衣服のあちこちが破れ、泥にまみれていたが、何よりも目を引いたのは、その腹部――刺突された槍の傷跡だった。
服の裂け目からは、乾きかけた血がこびりつき、さらに新たな血が滲んでいた。だが、かろうじて彼は――生きていた。
呼吸は浅く、掠れていたが、口元はわずかに動いている。
「……太一……!」
矢野が駆け寄って肩に手をかけると、太一の身体はぐらりと傾いだ。意識は朦朧としており、自力では立つことはできないようだった。
矢野が呼びかける間に、静はすでにその傷口を確認していた。
「横隔膜までは届いていません。ただし、腹膜と腸に損傷があります。時間は、長くありません」
そう言うと、懐から小さな袋を取り出し、中から薬草をすばやく取り出す。血で濡れた傷口を簡易的に洗い流すと、矢野に目配せした。
「矢野さん、肩を押さえてください。ずれないように」
「ああ……!」
太一の呻き声が、かすかに洩れる。
だが静の手は止まらない。縫合のかわりに、出血を抑える薬草をしっかりと当て布で巻きつけてゆく手際は、野戦慣れしているというより、それ以上に“慣れすぎている”ものだった。
命を救うことが、彼の中で“仕事”として定着している――そんな異様な冷静さがあった。
処置が終わると、静は短く言った。
「動けるうちに、戻りましょう」
矢野は頷くと、太一の身体を背負った。
重かった。何より、その“生きている重み”が、体中に染み込んでくるようだった。
太一は意識の底で何かを呟いていたが、それは言葉にならず、ただ音として矢野の背に震えを伝える。
※
帰路は長く感じられた。実際には三刻と経っていないはずなのに、矢野には何倍にも引き伸ばされたように思えた。
太一の血は少しずつ滲み出しては、矢野の背を濡らしてゆく。それが温かいことに、矢野は驚いていた。
血は温かい。当たり前のことなのに、それがどこか非現実のようだった。
その横で、静が歩いていた。まるで護衛のように、無言で周囲に目を配りながら。
ときおり、視線が矢野に向けられた。何かを言おうとしているようでもあり、結局言葉にはならないようでもあり――そのたびに矢野は、目を逸らさず応えた。
ふいに、静がぽつりと呟いた。
「……命の分岐点が迫っている」
矢野は、その言葉に、胸の内をかき乱された。
静の声は、ただの観察のようで、どこか悲しげで――それでいて、どこか遠かった。生死を、まるで“別の世界の理”として眺めているような声音だった。
矢野は応えられなかった。
血を流す太一を背負いながら、その命がいつ尽きるかも分からず、ただ無力に歩を進めるだけの自分が、ひどくちっぽけに思えたからだ。
もし、今ここで太一の命が尽きたとして、自分に何ができるのか。
何もできない。
それが――悔しかった。
軍営が見えたのは、太陽が傾きかけたころだった。
門を通るとすぐ、仲間の兵たちが駆け寄ってくる。「矢野!」「それ、太一か?」「やられたのか!?」。声が重なったが、矢野は応えなかった。応えられなかった。問いより先に、背中の重みが言葉だった。
「手当てを――」
「医師を呼べ!」
「早く寝かせろ、布団だ!」
声が飛び交うなか、静は手早く指示を出し、太一は治療所へ運ばれた。
その夜、矢野は火の前でうずくまっていた。背には血がこびりついたままだ。兵たちは皆、口々に「助かってよかった」「命があったのは奇跡だ」と言い合っている。だが矢野の心は晴れなかった。
太一を救ったのは、自分ではない。
応急処置を施したのも、敵を警戒しつつ道を選んだのも、すべて静だ。自分は――ただ、背負っていただけだ。
そんな無力感に、火の粉が揺れるように胸の奥がざわめいた。
そのとき、背後から静かな足音がした。
振り返ると、静がそこにいた。
白装束の裾はまだ泥で汚れていたが、その表情はいつも通りだった。焚火の赤がその横顔を照らす。だが、目は相変わらず揺れなかった。
「……あいつ、助かるだろうか」
矢野の声は低かった。
静は少しだけ、目を伏せた。
「運に、聞いてください」
「お前が助けたんだ」
「僕がやったのは、血を止めて、矢野さんと一緒に戻ったことだけです」
まるで、それが“命を助けた”ことにならないかのように、静は事もなげに言った。
矢野は顔をしかめる。
「それでも、あいつは……」
「死んだ者もいます。処置が間に合わなかった兵、声を上げる暇もなく命を落とした者。その中で、太一さんは戻ってきた」
静は、焚火の揺らめきを見つめながら言った。
「それだけのことです」
それだけのこと――。
命が助かったことを、それだけのこと、と思える神経が、矢野には理解できなかった。
だが同時に、静のその“遠さ”が、なぜか泣きたくなるほど悲しかった。
「……お前、泣いたことあるか?」
矢野が問いを口にすると、静はゆっくりと顔を向けた。
「泣く、ですか?」
「そうだ。戦で誰かが死んだときとか、味方が斬られたときとか、助けられなかったときとか……」
「……どうでしょう」
静は少し考え込むように間を置いた。
「その答えは……もう、遠いどこかに置いてきてしまった気がします」
その言葉が、焚火の音の中に溶けた。
矢野は返す言葉を失い、ただ火の音を聞いた。
それは、焚火のはぜる音というより――名を持たぬ心の声のようだった。
※
夜半を回ったころ、太一が目を覚ましたという報せが入った。
矢野はすぐさま立ち上がった。焚火の前にいた静も、何も言わずに歩き出す。治療所に近づくと、中から笑い声が漏れてきた。
「……俺は死んだか?」
太一の、かすれたけれど間違いなく太一らしい声だった。
思わず矢野は足を止めた。その声に、涙が出そうになった。
「おい、矢野。見舞い一番乗り、ありがたく思えよ……って、顔が怖ぇな」
寝台の上、腹部を包帯で巻かれた太一が、乾いた声で笑っていた。顔色はまだ悪い。唇の端には血の滲みもある。けれど、生きていた。
「太一……」
「うん。痛ぇけど、生きてる。そっちは?」
「こっちは……」
言葉にならなかった。矢野は苦笑し、太一の隣に腰を下ろした。
太一はゆっくりと視線を静へと移す。
「静、お前……助けてくれたんだな」
静は首を横に振った。
「矢野さんが背負ってくれたんです。僕は、何も」
「は? じゃあ、誰が俺の腹の穴塞いでくれたんだよ」
「穴……そう言うと変な感じですね」
「変じゃなくて事実だ。あれ、すっぽ抜けたら、今ごろあの世で酒盛りしてた」
矢野が小さく笑った。太一の口調も、気の張っていた空気も、ふっと軽くなっていく。
太一が枕の下に手を伸ばし、血の滲んだ布を取り出した。
「これ、お前らが取ってくれたのか?」
それは、太一の佩刀の一部――鍔だった。傷だらけになりながら、まだ彼の命を守ろうとしていた刃の痕跡。
「……お前の刀、守ってたぞ」
矢野が言うと、太一はその鍔を胸に当てて目を閉じた。
「そうか。じゃあ、次も一緒に行くか」
眠気が再び太一を包み、目蓋が下りていく。
「また、戦かよ……つれぇな」
その呟きは、子どもの寝言のようにやわらかかった。
静と矢野は、言葉を交わさずに部屋を出た。
外に出ると、空には雲が切れ、月が顔を覗かせていた。
静がぽつりと言った。
「命って、こうして流れて、土に還るんですね」
その言葉は、矢野の胸に深く残った。夕暮れの血の色、帰り道に漂った匂い、焚火の音、太一の笑顔、静のまなざし――それらがすべて、ひとつの像を結び始めていた。
それは、“戦”という名の底なしの器に落とされた命の光だった。
※
矢野はその夜、長く眠れなかった。
太一が助かったという安堵と、あの場で何もできなかったという悔しさ。その両方が胸の奥で鬩(せめ)ぎ合い、頭を重たくさせる。何度目を閉じても、槍を腹に受けた太一の姿が脳裏に蘇る。あの時、あと数歩早ければ、あるいは自分がもっと強ければ。だがそんな思いに終わりはない。
夜更けの帳が下りた軍営の中、矢野はふらりと立ち上がり、剣の手入れ場へと足を向けた。そこにはすでに静がいた。
白装束を脱ぎ、袖をたくし上げた腕に包帯を巻いたまま、静は刀を研いでいた。月明かりが砥石に反射し、細く光る。研ぐ音は、まるで彼の呼吸のように規則正しく、無駄がなかった。
「眠れないのか」
矢野の声に、静は手を止めずに答えた。
「ええ。……矢野さんも、ですか?」
「ああ。太一の顔、見ちまったらな」
矢野は隣に腰を下ろすと、自らの刀を鞘から抜いた。血を吸った鉄が、月に濡れて鈍く光る。
「……あいつは、“死んだか?”って、笑ったんだ」
静は砥石の上で手を止めた。
「命を失いかけた者にしか、言えない言葉ですね」
「それが、悔しくてな。あんな顔させるまで、俺は何もできなかった」
矢野は刀を見つめた。刃先が震えているのは、疲労からか、それとも悔しさからか。
すると、静がふと、言った。
「でも……矢野さんがいたから、太一さんは生きてます」
「俺じゃない。お前が応急処置して、俺が背負って、ただそれだけだ」
「その“ただそれだけ”が、できる人は、少ないんですよ」
矢野は思わず静を見た。月光に照らされた横顔には、どこか遠い場所を見るような憂いがあった。
「戦場では、“死なせない”ことが、一番難しい」
静の声は低く、けれど凛としていた。
「だから、太一さんが笑ってくれたこと、それがすべてです」
矢野は言葉を失った。
風が、焚火の残り香をさらって吹いた。
二人の間に沈黙が流れる。だがその沈黙は、かつてのそれとは異なっていた。ただの言葉の隙間ではなく、互いの鼓動が共鳴するような、静かな信頼の気配が宿っていた。
やがて、静が刀を鞘に納める。
「明日から、戦はもっと厳しくなる」
「分かってる」
「太一さんも、いずれまた戦場に出ます」
「止められないだろうな、あいつは」
「ええ。だから……矢野さん、お願いがあります」
「なんだ」
静は、ほんの少し、言い淀んだ。
そして、ごく小さな声で言った。
「太一さんが……もし、倒れたら。今度は、僕ではなく、矢野さんが……」
矢野はゆっくり頷いた。
「分かってる。絶対に、死なせない」
静は目を伏せ、頷く。その仕草は、どこか痛みを孕んでいた。
彼はきっと、自分の命の終わりをどこかで知っている――矢野はそう感じていた。
だが今は、何も聞かない。
静の剣が誰のためにあるのか。
静が、何のために斬り、生きているのか。
それを知るのは、もう少し先でいい。
ふと、東の空がわずかに白み始めていた。
戦は、まだ終わらない。
だが、誰かを守るという誓いは、今、ここに生まれていた。
――雨の匂いが、まだ残っていた。
夜半には止んだというのに、尾張の地を這うように湿った空気が肌にまとわりつく。足元はぬかるみ、草の葉に溜まった水滴が風に煽られては、兵たちの肩を静かに濡らしていく。
矢野蓮は、そのぬかるみを踏みしめながら、視線を前に投げていた。歩幅を変えず、背中を丸めず、ただ前を見据えて。
その隣には静がいた。相変わらず、白装束の裾は泥で汚れ、顔には仮面のような無表情が張り付いている。だが矢野は知っていた。沈黙の奥に、言葉にならない感情が、確かに在ることを。
「……静」
声をかけようとした瞬間だった。
風走組の駐屯地に設けられた仮設の伝令所から、駆け足の兵が一人、泥を跳ね上げながら走ってきた。
「――斥候組の所在が不明だ! 先刻、通信が断たれたとの報!」
矢野は反射的に一歩踏み出していた。
「誰が行ってるんだ」
「……高山太一を含む五名、南東の林地帯です!」
その名を聞いた瞬間、矢野の脳裏を稲妻が駆け抜けた。
高山太一――静より四つ年上の男。風走組でも随一の力持ちで、粗野で飄々としているが、戦場では頼れる兄貴分だ。静に対しても物怖じせずに接し、笑っては、「あの顔でちゃんと人間らしいとこあるんだよ、あいつ」と言っていた男だった。
矢野は駆けた。泥に足を取られるのも構わず、ただ前へ。
その後ろを、何も言わずに静がついてくる。ふたりはすぐさま小部隊を編成しようとしたが、指揮官の一人が言った。
「今、他の隊は動けん。待て、敵の数も不明だ」
その判断は理に適っていた。だが、矢野はわずかに睨んで、はっきり言った。
「俺が行く。静も一緒だ。あいつは、俺の――仲間だ」
言いながら、自分でも“友”という言葉を選べなかったことに、胸が痛んだ。
けれど、静は何も言わなかった。ただ、その瞳にうっすらと光を宿し、頷いた。
*
林の入り口は、湿った緑に沈黙していた。鳥も鳴かず、風もなく、ただ空気だけがじとりと重い。
静が前を歩く。彼の歩みは一貫して静かで、まるで地を滑るようだった。矢野はその背に付いていく。剣の柄に手を置きながら、視線を左右に巡らせる。
ふいに、静が片手をあげて制止の合図をした。
林の奥――何かが光った。
剣だ。刃の反射。
ふたりは目配せを交わし、瞬時に木陰へと身を隠す。
そこには、斥候のうち二人の遺体があった。倒れ方から見て、急襲に遭ったのは明らかだった。胴を裂かれたひとりの顔には、恐怖と無念が張り付いたまま、凍りついている。
矢野が近づこうとしたそのとき――
「矢野さん、右です」
静の声が、木の幹越しに落ちてきた。
矢野は反射的に身を低くし、右に剣を振った。刃が空を切ると同時に、背後から現れた敵兵が驚愕に目を見開いたまま、斜めに斬り伏せられる。
直後、矢野は木々の間に、さらに三人の敵影を見た。
戦だ。否、これはすでに“戦”というには小さすぎる。これは“殺し”だ。
静が一歩前に出る。その姿が、薄曇りの林の中で淡く発光して見えた。
次の瞬間には、静の白装束が舞い、敵のうち二人が血を噴いて倒れていた。
残るひとりが恐慌に駆られて逃げようとしたその背を、静の投擲した小太刀が貫いた。
あたりに、再び沈黙が戻る。
矢野は息を整え、ふと、木の根元に何かを見つけた。
――赤い布だ。
それが誰のものか、見間違えるはずがない。
駆け寄った先に、彼は見た。
斥候の遺体の山の中で、膝をついたまま動かない男がひとり。
「……太一!」
太一は、地面に両膝をついた姿勢のまま、前に倒れかけていた。
頭は下がり、肩が不自然に落ちている。衣服のあちこちが破れ、泥にまみれていたが、何よりも目を引いたのは、その腹部――刺突された槍の傷跡だった。
服の裂け目からは、乾きかけた血がこびりつき、さらに新たな血が滲んでいた。だが、かろうじて彼は――生きていた。
呼吸は浅く、掠れていたが、口元はわずかに動いている。
「……太一……!」
矢野が駆け寄って肩に手をかけると、太一の身体はぐらりと傾いだ。意識は朦朧としており、自力では立つことはできないようだった。
矢野が呼びかける間に、静はすでにその傷口を確認していた。
「横隔膜までは届いていません。ただし、腹膜と腸に損傷があります。時間は、長くありません」
そう言うと、懐から小さな袋を取り出し、中から薬草をすばやく取り出す。血で濡れた傷口を簡易的に洗い流すと、矢野に目配せした。
「矢野さん、肩を押さえてください。ずれないように」
「ああ……!」
太一の呻き声が、かすかに洩れる。
だが静の手は止まらない。縫合のかわりに、出血を抑える薬草をしっかりと当て布で巻きつけてゆく手際は、野戦慣れしているというより、それ以上に“慣れすぎている”ものだった。
命を救うことが、彼の中で“仕事”として定着している――そんな異様な冷静さがあった。
処置が終わると、静は短く言った。
「動けるうちに、戻りましょう」
矢野は頷くと、太一の身体を背負った。
重かった。何より、その“生きている重み”が、体中に染み込んでくるようだった。
太一は意識の底で何かを呟いていたが、それは言葉にならず、ただ音として矢野の背に震えを伝える。
※
帰路は長く感じられた。実際には三刻と経っていないはずなのに、矢野には何倍にも引き伸ばされたように思えた。
太一の血は少しずつ滲み出しては、矢野の背を濡らしてゆく。それが温かいことに、矢野は驚いていた。
血は温かい。当たり前のことなのに、それがどこか非現実のようだった。
その横で、静が歩いていた。まるで護衛のように、無言で周囲に目を配りながら。
ときおり、視線が矢野に向けられた。何かを言おうとしているようでもあり、結局言葉にはならないようでもあり――そのたびに矢野は、目を逸らさず応えた。
ふいに、静がぽつりと呟いた。
「……命の分岐点が迫っている」
矢野は、その言葉に、胸の内をかき乱された。
静の声は、ただの観察のようで、どこか悲しげで――それでいて、どこか遠かった。生死を、まるで“別の世界の理”として眺めているような声音だった。
矢野は応えられなかった。
血を流す太一を背負いながら、その命がいつ尽きるかも分からず、ただ無力に歩を進めるだけの自分が、ひどくちっぽけに思えたからだ。
もし、今ここで太一の命が尽きたとして、自分に何ができるのか。
何もできない。
それが――悔しかった。
軍営が見えたのは、太陽が傾きかけたころだった。
門を通るとすぐ、仲間の兵たちが駆け寄ってくる。「矢野!」「それ、太一か?」「やられたのか!?」。声が重なったが、矢野は応えなかった。応えられなかった。問いより先に、背中の重みが言葉だった。
「手当てを――」
「医師を呼べ!」
「早く寝かせろ、布団だ!」
声が飛び交うなか、静は手早く指示を出し、太一は治療所へ運ばれた。
その夜、矢野は火の前でうずくまっていた。背には血がこびりついたままだ。兵たちは皆、口々に「助かってよかった」「命があったのは奇跡だ」と言い合っている。だが矢野の心は晴れなかった。
太一を救ったのは、自分ではない。
応急処置を施したのも、敵を警戒しつつ道を選んだのも、すべて静だ。自分は――ただ、背負っていただけだ。
そんな無力感に、火の粉が揺れるように胸の奥がざわめいた。
そのとき、背後から静かな足音がした。
振り返ると、静がそこにいた。
白装束の裾はまだ泥で汚れていたが、その表情はいつも通りだった。焚火の赤がその横顔を照らす。だが、目は相変わらず揺れなかった。
「……あいつ、助かるだろうか」
矢野の声は低かった。
静は少しだけ、目を伏せた。
「運に、聞いてください」
「お前が助けたんだ」
「僕がやったのは、血を止めて、矢野さんと一緒に戻ったことだけです」
まるで、それが“命を助けた”ことにならないかのように、静は事もなげに言った。
矢野は顔をしかめる。
「それでも、あいつは……」
「死んだ者もいます。処置が間に合わなかった兵、声を上げる暇もなく命を落とした者。その中で、太一さんは戻ってきた」
静は、焚火の揺らめきを見つめながら言った。
「それだけのことです」
それだけのこと――。
命が助かったことを、それだけのこと、と思える神経が、矢野には理解できなかった。
だが同時に、静のその“遠さ”が、なぜか泣きたくなるほど悲しかった。
「……お前、泣いたことあるか?」
矢野が問いを口にすると、静はゆっくりと顔を向けた。
「泣く、ですか?」
「そうだ。戦で誰かが死んだときとか、味方が斬られたときとか、助けられなかったときとか……」
「……どうでしょう」
静は少し考え込むように間を置いた。
「その答えは……もう、遠いどこかに置いてきてしまった気がします」
その言葉が、焚火の音の中に溶けた。
矢野は返す言葉を失い、ただ火の音を聞いた。
それは、焚火のはぜる音というより――名を持たぬ心の声のようだった。
※
夜半を回ったころ、太一が目を覚ましたという報せが入った。
矢野はすぐさま立ち上がった。焚火の前にいた静も、何も言わずに歩き出す。治療所に近づくと、中から笑い声が漏れてきた。
「……俺は死んだか?」
太一の、かすれたけれど間違いなく太一らしい声だった。
思わず矢野は足を止めた。その声に、涙が出そうになった。
「おい、矢野。見舞い一番乗り、ありがたく思えよ……って、顔が怖ぇな」
寝台の上、腹部を包帯で巻かれた太一が、乾いた声で笑っていた。顔色はまだ悪い。唇の端には血の滲みもある。けれど、生きていた。
「太一……」
「うん。痛ぇけど、生きてる。そっちは?」
「こっちは……」
言葉にならなかった。矢野は苦笑し、太一の隣に腰を下ろした。
太一はゆっくりと視線を静へと移す。
「静、お前……助けてくれたんだな」
静は首を横に振った。
「矢野さんが背負ってくれたんです。僕は、何も」
「は? じゃあ、誰が俺の腹の穴塞いでくれたんだよ」
「穴……そう言うと変な感じですね」
「変じゃなくて事実だ。あれ、すっぽ抜けたら、今ごろあの世で酒盛りしてた」
矢野が小さく笑った。太一の口調も、気の張っていた空気も、ふっと軽くなっていく。
太一が枕の下に手を伸ばし、血の滲んだ布を取り出した。
「これ、お前らが取ってくれたのか?」
それは、太一の佩刀の一部――鍔だった。傷だらけになりながら、まだ彼の命を守ろうとしていた刃の痕跡。
「……お前の刀、守ってたぞ」
矢野が言うと、太一はその鍔を胸に当てて目を閉じた。
「そうか。じゃあ、次も一緒に行くか」
眠気が再び太一を包み、目蓋が下りていく。
「また、戦かよ……つれぇな」
その呟きは、子どもの寝言のようにやわらかかった。
静と矢野は、言葉を交わさずに部屋を出た。
外に出ると、空には雲が切れ、月が顔を覗かせていた。
静がぽつりと言った。
「命って、こうして流れて、土に還るんですね」
その言葉は、矢野の胸に深く残った。夕暮れの血の色、帰り道に漂った匂い、焚火の音、太一の笑顔、静のまなざし――それらがすべて、ひとつの像を結び始めていた。
それは、“戦”という名の底なしの器に落とされた命の光だった。
※
矢野はその夜、長く眠れなかった。
太一が助かったという安堵と、あの場で何もできなかったという悔しさ。その両方が胸の奥で鬩(せめ)ぎ合い、頭を重たくさせる。何度目を閉じても、槍を腹に受けた太一の姿が脳裏に蘇る。あの時、あと数歩早ければ、あるいは自分がもっと強ければ。だがそんな思いに終わりはない。
夜更けの帳が下りた軍営の中、矢野はふらりと立ち上がり、剣の手入れ場へと足を向けた。そこにはすでに静がいた。
白装束を脱ぎ、袖をたくし上げた腕に包帯を巻いたまま、静は刀を研いでいた。月明かりが砥石に反射し、細く光る。研ぐ音は、まるで彼の呼吸のように規則正しく、無駄がなかった。
「眠れないのか」
矢野の声に、静は手を止めずに答えた。
「ええ。……矢野さんも、ですか?」
「ああ。太一の顔、見ちまったらな」
矢野は隣に腰を下ろすと、自らの刀を鞘から抜いた。血を吸った鉄が、月に濡れて鈍く光る。
「……あいつは、“死んだか?”って、笑ったんだ」
静は砥石の上で手を止めた。
「命を失いかけた者にしか、言えない言葉ですね」
「それが、悔しくてな。あんな顔させるまで、俺は何もできなかった」
矢野は刀を見つめた。刃先が震えているのは、疲労からか、それとも悔しさからか。
すると、静がふと、言った。
「でも……矢野さんがいたから、太一さんは生きてます」
「俺じゃない。お前が応急処置して、俺が背負って、ただそれだけだ」
「その“ただそれだけ”が、できる人は、少ないんですよ」
矢野は思わず静を見た。月光に照らされた横顔には、どこか遠い場所を見るような憂いがあった。
「戦場では、“死なせない”ことが、一番難しい」
静の声は低く、けれど凛としていた。
「だから、太一さんが笑ってくれたこと、それがすべてです」
矢野は言葉を失った。
風が、焚火の残り香をさらって吹いた。
二人の間に沈黙が流れる。だがその沈黙は、かつてのそれとは異なっていた。ただの言葉の隙間ではなく、互いの鼓動が共鳴するような、静かな信頼の気配が宿っていた。
やがて、静が刀を鞘に納める。
「明日から、戦はもっと厳しくなる」
「分かってる」
「太一さんも、いずれまた戦場に出ます」
「止められないだろうな、あいつは」
「ええ。だから……矢野さん、お願いがあります」
「なんだ」
静は、ほんの少し、言い淀んだ。
そして、ごく小さな声で言った。
「太一さんが……もし、倒れたら。今度は、僕ではなく、矢野さんが……」
矢野はゆっくり頷いた。
「分かってる。絶対に、死なせない」
静は目を伏せ、頷く。その仕草は、どこか痛みを孕んでいた。
彼はきっと、自分の命の終わりをどこかで知っている――矢野はそう感じていた。
だが今は、何も聞かない。
静の剣が誰のためにあるのか。
静が、何のために斬り、生きているのか。
それを知るのは、もう少し先でいい。
ふと、東の空がわずかに白み始めていた。
戦は、まだ終わらない。
だが、誰かを守るという誓いは、今、ここに生まれていた。



