ライターの仕事を勝ち取って、数ヶ月後、父八郎はがん宣告を受け余命わずかとなった。家の中でも歩けないくらいひどい状況だった。幸い行政の認定がおり、ヘルパーさんが毎食前に来てくれることになった。私は父の余命宣告を受けたが、それを父に伝える勇気が出てこなかった。結局叔父とも相談し、父には最後までがんのことは言わないと決めた。父は私の障害を一番理解しようとしてくれた。いろんな周りの人たちにも、そうやって言ってくれていた。息子である私を守るために。

 今余命宣告を受けた父の姿を見るだけで、私は涙が出そうになった。しかし父には最後まで本当のことを隠すつもりなので、ここで父の前では泣けなかった。だが父のいないところでは泣いてしまった。ときを同じくするように私が叔父に父の余命を伝えると、なんと叔父の夢の中に父が出てきて、叔父の家に父がいたというのである。

 私と父の関係性は、元々は良くなかった。しかし私も大人になり、少しでも父を理解しようと努力していたところだった。
「父さん、相撲見るかい?」
私は聞いた。
「いいよ、ラジオで聞くから。その方が、臨場感がある」
父は言った。
「でもテレビで見られたら、テレビで見たいでしょ?」
私は聞いた。
「テレビなんか処分したじゃないか?」
父は言った。
「いや、インターネットテレビなら、スマホでも見られるから。ほら!」
私は父のスマホの設定をしてあげた。
「へー、今はこういう時代になったのか」
父は満足そうに、スマホで相撲を見ていた。
「早く歩けるようになるといいね!」
私は父に言った。父は転んで前方の骨と後方の骨を骨折して、歩けなくなっただけと勘違いしていた。
「おー、そうだな!」
父も頷きながら言った。私は父の末期がんのことを知っていたので、苦しかった。父の前では、いつでも元気を装い、演技をしていた。俳優でもない自分が、私生活で演技する。苦痛だった。そして父に対して、罪悪感を覚えた。本当のことを父に言った方が、遺書とかをもっとちゃんと遺せたのかもしれない。

 このとき、父と入れ替わるように、母が退院して戻ってきた。母は、二度くも膜下出血で倒れて手術して、リハビリをしてやっと帰ってきたのだ。だが認知症も多少進み、今まで優しかった母が、怒りっぽくなってしまったのである。母にも父が余命わずかだとは言えなかった。母に言ったら、父にポロっとその事実を言ってしまうかもしれない。しかし事実を知らない母にしてみれば、父のところへ、毎日三回ヘルパーさんが来る。出入りするたびに、今度は何時にヘルパーさが来るのかと気になり、家から一人で出て行こうとするたびに、私がついて行った。だがもちろん仕事中は、それができない。在宅勤務とはいえ、そこまではできない。あるときヘルパーさんが、次の現場へ急いで行かなければならなかったときに、私は呼ばれた。
「息子さん、すいません。お父さんのおむつを替えるときに、布団にうんちがついてしまいました。私はこの後、別のお宅に行かなければなりません。洗って処置してもらえませんか?」
私は黙って言うことを聞いた。

 あるときは母が夜中に、掃除機を使い出した。母の部屋に、ゴキブリが出たらしい。私は、家中にゴキブリ対策をしていた。このことを母に説明しても、納得してもらうのに時間がかかった。深夜であった。

 そんなこんなで、私は疲弊していた。夏が過ぎ、九月のある日の朝、父は亡くなった。享年七十八歳だった。最後まで父には本当のことを言わなかった。父は安らかに眠っているようだった。しかし父は、もしかしたら、何か言い遺したことがあったかもしれない。そう考えると、私の父に対する罪悪感は増していた。父の葬儀が終わり、役所へ死亡手続きなどをしていた。ようやく諸々の手続きが終わった頃、今度は母が三度、くも膜下出血で倒れた。医師からは「今回は手術ができない状況です。お看取りですね」と言われた。

 私は言葉にならなかった。一ヶ月前に父を亡くしたばかりなのに、ようやく母ともゆっくり話せると思った矢先の出来事だったからだ。母は搬送された病院で、四日後に息を引き取った。享年七十四歳だった。父を追いかけるように逝ってしまった。取り残された私は、なんとも言えない感情に支配された。会社には復帰できそうにもない。メンタルがズタズタになっていた。私は可子先生に、休職願の診断書を書いてもらおうとした。
「先生、父母の度重なる死で、メンタルが壊れそうです。休職させてください」
私は先生に懇願した。
「木戸さん、せっかく合格した会社で、今休職したら復職しづらくなりますよ」
可子はそう言って、私の奮起を促そうとした。
「先生お願いします。もう限界です」
私は言った。どうして先生は、すぐにうんと言ってくれないのか、このときの私には理解不能だった。
「分かりました。休職願の診断書を書きましょう。しっかり休んでください」
ようやく可子先生は、診断書を書いてくれた。

 それから二ヶ月、私は状況があまり変わらなかった。未だにパニック発作のような物が、日常生活で起きていた。私は復職できるまでに、まだ時間が足りない。しかし会社が認めてくれた休職期間は二ヶ月と決められていた。退職するしか選択肢が残っていなかった。これ以上今の状態で、働こうとすると、会社に迷惑をかけてしまうと思った。今度は可子先生に、仕事を辞める決断をしたと報告した。
「先生、二ヶ月でメンタルがまだ戻りません。会社のルールで、二ヶ月までしか休職できません。しかしまだメンタルが復調していません。仕事を辞めます」
私はそう可子先生に伝えた。しかし可子はその決断に反対した。
「木戸さん、辞めた後のことは考えているのですか? 仕事がないということは辛いことですよ。時短でも無理ですか?」
可子はそう私に言った。
「時短とかそういう問題じゃないです」
私は抵抗した。
「そうですか。分かりました」
可子先生はあっさりと了承した。私はもっと反対されると思っていたから、肩透かしを食らった気分だった。なぜか可子先生に異変を感じ取った。それは単に今回のことを強く反対されなかったからじゃない。可子先生の目に光るものを、一瞬見たからだ。その可子先生の目に見た光る物の意味は、まだ私には分からなかった。
「先生……」
「木戸さん、入院しましょう」
「え?」
「精神科の入院は、しっかり療養できますよ」
「先生、しかし」
「いいから、私に任せてください」
「分かりました」
私はどういうわけか先生に同意していた。