「莉奈」
 僅かに聞こえる、ぼやけた声。
 ……いいな。どうせ私には誰も来てくれない。
 こんな私を探し出してくれる人なんて、誰も。

「大丈夫か?」
 柔らかく、優しい声。まるで毛布に包まれるような温かさ。
 閉じていた目をそっと開き、耳を塞いていた両手をゆっくりと下ろす。
 そっと見上げると、見慣れた顔。
 流星がいた。
 今にも消えそうな私をまるで探し出してくれたようで、驚きよりも先に胸に熱が滲んでいく。
 来てくれたんだ。
 ほっとした自分に気付いて、息が詰まっていく。

「莉奈!」
 鋭くもどこか焦りを帯びた声に振り向く間もなく、大きな手が私の手首を掴み、強引に引き上げられる。

「ひっ!」
 反射的に跳ね上がった体が、瞬時に過去の記憶を呼び起こす。
 強い力で抑え込まれた手首、見下ろしてきた濁った目、圧し掛かるような重たい空気。息が出来なくなる、あの感覚。
 心臓まで掴まれたかと思うぐらいに激しく胸が痛み。脳内は吐きそうなぐらいに揺れ。体は酸素を取り込めていないと錯覚するほどに全身の血の気が引いていく。
 視界が揺れ、足元から力が抜け、硬い地面に尻もちを付くように座り込んでしまった。

「……あ?」
 しゃがみ込み、怪訝そうに覗き込んでくる男性の顔が、街灯に照らされる。
 驚きと戸惑いを含んだ声が、低く喉奥から零れる。

 身長は173センチらしく、しゃがみこんでも明らかに大きいのだと分かる見た目。自然由来の爽やかな香り。黒髪は風で揺れ、鋭いはずなのにどこか優しさの滲む目元。夜空の星のように美しく、吸い込まれそうな瞳。透き通るような肌。
 落ち着きのある低声は、さっきまでの怖さを打ち消すように穏やかだ。

 なのに、その顔を見ただけで、胸が痛む。頬に触れられたわけでもないのに、右手の平と、抑えていない胸の奥がじんと焼ける。


「あの。ごめんなさ……。私、私」
 だけど私には、その美しいはずの彼の顔が怖かった。
 無意識に身体が震え、言葉が続かない。

「いらねえよ、こんなもん」
 言葉に詰まった私を見て、彼はふぅと短く息を吐き、手首を離した。
 そして、無言で私の肩掛けカバンのファスナーを開け、封筒を無造作に突っ込んできた。

「で、でも約束してたし……」
「満足させてもねぇのに、金だけもらう主義じゃねえの。俺は、一応プロだから」
 プロ? その言葉に、ようやく記憶が繋がる。

 そうだった。この人は癒しを売りにした女性向けの「レンタル恋人サービス」。セラピストの「流星」。
 今夜、心の痛みをなかったことにしてくれるはずだった。なのに私は、直前で逃げ出した。

「ったく、女に逃げられたなんて、流星の名に傷が付くだろうが。責任取って、ちゃんと一夜を共にしてもらおうか?」
 挑発的な口調でグッと距離を詰めてくる流星に、思わず私は。

「いやー!」
 その透き通った頬に手を振りかざし、僅かな眠りにつこうとする街にパチンと乾いた音を響かせる。

「お前なー!」
 勢いで頬を打ってしまった。
 真っ赤に染まった彼の頬を見て、私は自分が悪いのに頭を抱えてギュと目を強く閉じていた。
 また、やってしまった。

「ご、ごめんなさい! 私、もう……」
「……始発は、四時五十一分」
 流星は、電光掲示板とその横に設置されている柱時計を見つめて呟く。

「現在一時三分。始発まで三時間五十分ってところだな? それまで付き合え。そしたら、解放してやるよ」
「……え? いや……」
 なんとか振り絞った言葉を、彼の声がかき消す。

「顔が商売道具とされる、セラピストの顔を引っ叩いたんだ。その上、流星の名に傷を付ける? これで帰れると思っているのか?」
「わ、わ、分かりました!」
 逃げ場のない夜の空気に押されるように、私は思わず頷いてしまった。

 もう彼のペースに巻き込まれるしかない。
 でも、なぜだろう。私はそのまま逃げたいとは思わなかった。

「本当の恋を教えてやる」
「え?」
 さっきと違って、今度はやさしく、手を握られた。
 手首ではなく、手の平ごと包み込まれる。

 凛とした声に引かれ、私は立ち上がる。
 そのまま腕を引かれ、彼に導かれるように私は夜の街へと踏み出す。