私のアパート近くの森には、この季節にホタルが飛ぶ。そんな幻想的な一瞬を切り取りたい私達は、夜ご飯をコンビニのおにぎりで済ませ撮影に費やす。
繊細なホタルを驚かさないように心掛け、ファインダーを覗き込み、点滅するその一瞬を狙ってシャッターを切る。
至福のひとときだ。
ブー、ブー、ブー。
暗闇に響く、僅かな振動音。
彼がポケットから出したのはスマホ。そこに表示された時刻は二十二時五十分だった。
「帰るか?」
「うん……」
楽しい時間の終わりを告げる音。私はこのアラーム音が嫌い。
鞄を手にし、静かな森を後にする。……一つ、大切な物を置き去りにして。
「あ、お守りがない!」
森から抜けたところで、あえて声を張り上げる。
「いつまであった?」
「たぶん、森に入った時には……」
彼は言葉を遮るようにスマホのライトをつけ、森林へ戻っていく。ホタルを驚かさないように、ライトの光を調整して。
先程までいたベンチに転がっていたのは、ホタルのぬいぐるみストラップ。
……私がわざと、置いて行った物。
「あった。……チェーン、切れかけてたぞ?」
彼は、これが健斗からもらった物だと知った上で探してくれた。
「ありがとう。……ごめん、終電間に合わないよね?」
「まあ、明日は休みだし問題ないけどな」
前方を照らして、前を歩いて行く彼。彼の背を追いながら、胸がざわつく。
このまま終わらせたくない。だから私は、ほんの少しだけ勇気を出す。
「あ、あのさ。うち、……来ない?」
静かな森林の中、消えていく声。だけど火照る全身は確かに存在していた。
振り返った彼が持っていたライトに足元を照らされた私は、目を伏せる。
「……やめとくわ」
前方を向き直した彼は珍しく早足で歩き出してしまい、私は早歩きで追いかける。
「こないだ友達の結婚式で、地元へ戻っていたじゃない? 親に持たされた茶葉があって、前に美味しいと言ってくれたあのお茶。煎れたてで出せるよ」
気付けば口早になっていて、彼に来て欲しいという気持ちがどんどんと溢れていく。
「……帰る。蛍を傷付けたくないから」
彼の言葉と共に、背中が遠ざかる。
その姿に、私はようやく悟った。
──この人には、自分から歩み寄らなきゃ届かないんだ。
スマホの灯りが消え、闇が広がる。
だけど真っ暗ではなかった。ホタルの淡い光が、優しく辺りを照らしていた。
草わらで光を放っていた一匹のホタルが、ふわりと空を舞った。
その瞬間、彼の言葉がよみがえる。
『蛍は強いから、飛べる』
あの人は私の名前を知っていた。
だから、あの言葉は──。
ストラップを握り締め、ゆっくりと前に進んでいく。
するとスマホより放たれた光りは戻ってきた。
私を、迎えに戻ってきてくれたんだ。
光へ向かって駆け出し、私はその胸に飛び込んでいた。
「うちに来て……じゃ、ダメかな?」
彼の胸から伝わる鼓動は、まるで答えの代わりだった。
私はそっと彼を引き寄せ、初めて自分から唇を重ねる。
私の、初めてのキス。
ライトが照らす彼の頬は、ほんのり赤く染まっていた。
「……蛍」
彼の大きな手が私の頬を包んでくれて、唇を重ねていく。
瞼を開くとそこには舞う、無数の光。
今日二度目の、ホタル達の飛翔だった。
そんな中。彼に差し伸べられた手を握り、そっと身を寄せる。
──もう終電なんて、気にしなくていい。私達はただ、その幻想的な世界に魅了されていく。
『初めては、蛍をずっと見守ってくれていた川のせせらぎのような人にしろよ』
健斗は、彼が私を見守ってくれていると気付いていたのかな?
「……知ってると思うが、俺……女性とか、知らんからな」
「私もだよ。……気持ちでは、ね」
彼の不器用な言葉に、私は笑って返す。
──どう受け取るかは、私次第。
だから一度目のことはなかったことにしている。……ノミに噛まれた。そこに感情抱くなんて、バカバカしいもんね。
「でもそいつのこと好きになって。い、色々とあったんだろ!」
珍しく声を張り上げた彼は、私に向けていた視線を逸らしてくる。
「前に話した通り、私は好きになったよ。でも彼とは、ホテルで話をして、いざ施術が始まろうとしたところで怖くなって、彼の頬を引っ叩いて逃げちゃったの。その後は小山で、ホタルを見ながら話をしただけ。このストラップは終電を逃した者同士、一夜を共にした友達としてくれたの」
そこに嘘偽りはない。本当に彼とは何もなかった。
その事実を知った彼は突然私の手を離して、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。
「何で、言わなかったんだ?」
「だって、聞かれなかったもん。興味ないのかと思って。……もしかして嫉妬?」
彼の前でしゃがみ込み、むくれた顔を指でツンツンと触れる。
一度も聞かれたことがなかったから関心ないのかと不安になったこともあったけど、内心では気になっていたんだ。
「……ん」
「え?」
ホタルを眺めていると突如差し出された、小さな紙袋。
「……誕生日おめでとう」
気付けば0時を過ぎていて、私は二十九歳になっていた。
「ありがとう。……部屋で開けるね」
「ああ」
浮遊しているホタル達を眺めながら、彼の手を握り歩き出す。
あの夜、小山で見た飛べない蛍。
飛ばないだけで、飛べないわけではない。そう教えてくれたあなたのおかげで、私はもう一度輝くと決めた。
そして今日飛ぶことが出来たのは、ここで命の光を灯すあなた達のおかげ。だから。
「ありがとう」
そう口にした私はホタル達に別れを告げ、私達は幻想の夜を後にした。
繊細なホタルを驚かさないように心掛け、ファインダーを覗き込み、点滅するその一瞬を狙ってシャッターを切る。
至福のひとときだ。
ブー、ブー、ブー。
暗闇に響く、僅かな振動音。
彼がポケットから出したのはスマホ。そこに表示された時刻は二十二時五十分だった。
「帰るか?」
「うん……」
楽しい時間の終わりを告げる音。私はこのアラーム音が嫌い。
鞄を手にし、静かな森を後にする。……一つ、大切な物を置き去りにして。
「あ、お守りがない!」
森から抜けたところで、あえて声を張り上げる。
「いつまであった?」
「たぶん、森に入った時には……」
彼は言葉を遮るようにスマホのライトをつけ、森林へ戻っていく。ホタルを驚かさないように、ライトの光を調整して。
先程までいたベンチに転がっていたのは、ホタルのぬいぐるみストラップ。
……私がわざと、置いて行った物。
「あった。……チェーン、切れかけてたぞ?」
彼は、これが健斗からもらった物だと知った上で探してくれた。
「ありがとう。……ごめん、終電間に合わないよね?」
「まあ、明日は休みだし問題ないけどな」
前方を照らして、前を歩いて行く彼。彼の背を追いながら、胸がざわつく。
このまま終わらせたくない。だから私は、ほんの少しだけ勇気を出す。
「あ、あのさ。うち、……来ない?」
静かな森林の中、消えていく声。だけど火照る全身は確かに存在していた。
振り返った彼が持っていたライトに足元を照らされた私は、目を伏せる。
「……やめとくわ」
前方を向き直した彼は珍しく早足で歩き出してしまい、私は早歩きで追いかける。
「こないだ友達の結婚式で、地元へ戻っていたじゃない? 親に持たされた茶葉があって、前に美味しいと言ってくれたあのお茶。煎れたてで出せるよ」
気付けば口早になっていて、彼に来て欲しいという気持ちがどんどんと溢れていく。
「……帰る。蛍を傷付けたくないから」
彼の言葉と共に、背中が遠ざかる。
その姿に、私はようやく悟った。
──この人には、自分から歩み寄らなきゃ届かないんだ。
スマホの灯りが消え、闇が広がる。
だけど真っ暗ではなかった。ホタルの淡い光が、優しく辺りを照らしていた。
草わらで光を放っていた一匹のホタルが、ふわりと空を舞った。
その瞬間、彼の言葉がよみがえる。
『蛍は強いから、飛べる』
あの人は私の名前を知っていた。
だから、あの言葉は──。
ストラップを握り締め、ゆっくりと前に進んでいく。
するとスマホより放たれた光りは戻ってきた。
私を、迎えに戻ってきてくれたんだ。
光へ向かって駆け出し、私はその胸に飛び込んでいた。
「うちに来て……じゃ、ダメかな?」
彼の胸から伝わる鼓動は、まるで答えの代わりだった。
私はそっと彼を引き寄せ、初めて自分から唇を重ねる。
私の、初めてのキス。
ライトが照らす彼の頬は、ほんのり赤く染まっていた。
「……蛍」
彼の大きな手が私の頬を包んでくれて、唇を重ねていく。
瞼を開くとそこには舞う、無数の光。
今日二度目の、ホタル達の飛翔だった。
そんな中。彼に差し伸べられた手を握り、そっと身を寄せる。
──もう終電なんて、気にしなくていい。私達はただ、その幻想的な世界に魅了されていく。
『初めては、蛍をずっと見守ってくれていた川のせせらぎのような人にしろよ』
健斗は、彼が私を見守ってくれていると気付いていたのかな?
「……知ってると思うが、俺……女性とか、知らんからな」
「私もだよ。……気持ちでは、ね」
彼の不器用な言葉に、私は笑って返す。
──どう受け取るかは、私次第。
だから一度目のことはなかったことにしている。……ノミに噛まれた。そこに感情抱くなんて、バカバカしいもんね。
「でもそいつのこと好きになって。い、色々とあったんだろ!」
珍しく声を張り上げた彼は、私に向けていた視線を逸らしてくる。
「前に話した通り、私は好きになったよ。でも彼とは、ホテルで話をして、いざ施術が始まろうとしたところで怖くなって、彼の頬を引っ叩いて逃げちゃったの。その後は小山で、ホタルを見ながら話をしただけ。このストラップは終電を逃した者同士、一夜を共にした友達としてくれたの」
そこに嘘偽りはない。本当に彼とは何もなかった。
その事実を知った彼は突然私の手を離して、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。
「何で、言わなかったんだ?」
「だって、聞かれなかったもん。興味ないのかと思って。……もしかして嫉妬?」
彼の前でしゃがみ込み、むくれた顔を指でツンツンと触れる。
一度も聞かれたことがなかったから関心ないのかと不安になったこともあったけど、内心では気になっていたんだ。
「……ん」
「え?」
ホタルを眺めていると突如差し出された、小さな紙袋。
「……誕生日おめでとう」
気付けば0時を過ぎていて、私は二十九歳になっていた。
「ありがとう。……部屋で開けるね」
「ああ」
浮遊しているホタル達を眺めながら、彼の手を握り歩き出す。
あの夜、小山で見た飛べない蛍。
飛ばないだけで、飛べないわけではない。そう教えてくれたあなたのおかげで、私はもう一度輝くと決めた。
そして今日飛ぶことが出来たのは、ここで命の光を灯すあなた達のおかげ。だから。
「ありがとう」
そう口にした私はホタル達に別れを告げ、私達は幻想の夜を後にした。



