第六話「言葉になる前の噂」
物語になる前の噂は、たいてい風に似ている。
決まったかたちを持たず、どこから来たのかもわからず、気づけば衣服の襞に忍び込んで、肌に冷たさを残す。
言葉として誰かの口にのぼる頃には、もうそれは風ではなく“声”になっている。
しかし、それが誰のものかは、決して明かされない。
その日も、風が吹いていた。
高く、細く、笹の葉を震わせながら、谷をひとつ超え、村へと抜けていくような風だった。
そして、その風に混じって、ひとつの名前が――いや、“名もなき存在”が囁かれはじめていた。
※
それが“誰”から始まったのか、誰も覚えていなかった。
けれど、最初にそれを聞いたのは、村の集会所に出入りしていた若い役人だったという話がある。
当時の記録には何も書かれていない。
ただ、道場から数町離れた麓の町で、「白い着物を着た子どもが、剣を持っていた」という目撃談がいくつか重なっていた。
いわく、「目の前に立ったと思ったら、次の瞬間には背後にいた」
いわく、「音もなく動く。まるで影のようだった」
いわく、「剣を振ったが、一度も人に当てていない」
――けれど、なぜか誰もが“打たれたような気がした”
それは奇談のようでもあり、武勇伝の原型のようでもあった。
しかも、それが“実在する少年”の話だというのだから、余計に人々の耳目を集めた。
人は、“何者ともつかぬ者”に惹かれる。
名前のない剣士ほど、語り継がれる素地があるものだ。
※
道場の門下生たちがその話を耳にしたのは、文月の訪問から十日ほどが経った頃だった。
小太郎が、麓の茶屋で出た話を持ち帰ってきた。
「なあ、知ってるか? “白い剣士”の話」
夕方の稽古終わり、縁側で握り飯を食べていた榎本と新藤のもとに駆け寄るようにして言った。
「また妙なことを言いだしたな」
新藤が口をしかめる。
「でも本当だって。町の人が言ってた。“山の上に、剣を持った影が現れる”って。しかも子どもだって。白い着物で、誰よりも早く動くって」
榎本は手を止めた。
「……それが、静のことだと?」
小太郎は肩をすくめた。
「知らない。でもさ、あの子って、いつも白い着物着てるし、声も小さいし、音もしないし、なんか、そういうの……本当に、ありそうでしょ?」
その言葉に、榎本も新藤も答えなかった。
ただ、視線を道場の奥に向けた。
静は、ひとり庭の隅で黙々と素振りをしていた。
その姿はいつもと変わらず、竹林の音をかき消すようでもなく、逆にその音のなかに溶け込むようでもあった。
それは、風と同じだった。
※
数日後、道場に珍しい訪問者があった。
麓の町に住む、旅籠の女将である。
彼女は宗兵衛の知人だったが、道場に足を運ぶのは年に一度あるかないかだった。
その彼女が、珍しくお土産の団子を抱えて訪ねてきたのだ。
「……少し、気になることがありましてねぇ」
茶を淹れた榎本が戸口で話を聞くと、女将は眉をひそめて言った。
「最近、変な連中が町に出入りしてるんですよ。旅の振りをして、ずいぶんと村の方まで来てるらしい。話を聞いてみたら、“白い剣士を見た”とか、そんなことを……」
榎本の背筋が微かに震えた。
「噂です。確かに、噂。でも、あれは人の好奇心ってやつを煽りますからね。“本当にいるのか?”って、見にくる奴が増えるんです」
「……静のことだと?」
女将は言葉を濁したが、ほぼ肯定だった。
「――誰かが、話を広げている」
※
その夜、榎本は宗兵衛に報告した。
縁側に座る師の背は、やはりどこか遠くを見ていた。
静の姿を追っているようでもあり、追われているようでもあった。
「……放っておくのが一番だ」
宗兵衛の言葉は短かった。
「ですが、外からの目が――」
「目を向けられぬようにできるほど、我々は器用ではない。静は、いずれ見つかる。ならば――」
宗兵衛は少し黙し、夜空を仰いだ。
「ならば、誰の目にどう映るかを、見極めることだ。真実を語る必要はない。だが、嘘を重ねすぎれば、彼がいちばん傷つく」
榎本は黙って頷いた。
※
静自身は、その“噂”について、何も言わなかった。
ただ、ある日、小太郎が好奇心に負けて尋ねたことがあった。
「静、お前ってさ、本当は何人か斬ったことあるんじゃないか?」
庭掃除の最中だった。
静は手を止めなかった。
土を掃く音がつづいていた。
しばらく経って、小さく言った。
「わかりません。でも、斬っても、忘れてしまうなら、それはしてないのと同じかもしれません」
小太郎は返す言葉を持たなかった。
※
夕方、道場に客が現れた。
笠をかぶった、背の高い男。
腰には刀、旅人の装束。
しかし、どこか軍の者のような眼差しがあった。
「すまぬ。こちらに、白装束の少年がいると聞いた」
宗兵衛が応対に出た。
「誰が、その名を語ったか」
「町の者が言っていた。“音もなく斬る子ども”がいると」
「そういう子はおらん」
宗兵衛は即答した。
男はしばらく黙っていたが、やがて礼をして去った。
それで終わったのかは、誰にもわからなかった。
だが、その日から、静はまた一層、言葉を失っていったように見えた。
※
風が強まっていた。
季節は変わろうとしていた。
静は、それでも剣を振っていた。
言葉を持たず、ただの影のように。
けれど、いつしか“彼を見た”と語る者が増えていた。
彼の剣は、物語になる準備を、もう終えてしまっていたのだ。
物語になる前の噂は、たいてい風に似ている。
決まったかたちを持たず、どこから来たのかもわからず、気づけば衣服の襞に忍び込んで、肌に冷たさを残す。
言葉として誰かの口にのぼる頃には、もうそれは風ではなく“声”になっている。
しかし、それが誰のものかは、決して明かされない。
その日も、風が吹いていた。
高く、細く、笹の葉を震わせながら、谷をひとつ超え、村へと抜けていくような風だった。
そして、その風に混じって、ひとつの名前が――いや、“名もなき存在”が囁かれはじめていた。
※
それが“誰”から始まったのか、誰も覚えていなかった。
けれど、最初にそれを聞いたのは、村の集会所に出入りしていた若い役人だったという話がある。
当時の記録には何も書かれていない。
ただ、道場から数町離れた麓の町で、「白い着物を着た子どもが、剣を持っていた」という目撃談がいくつか重なっていた。
いわく、「目の前に立ったと思ったら、次の瞬間には背後にいた」
いわく、「音もなく動く。まるで影のようだった」
いわく、「剣を振ったが、一度も人に当てていない」
――けれど、なぜか誰もが“打たれたような気がした”
それは奇談のようでもあり、武勇伝の原型のようでもあった。
しかも、それが“実在する少年”の話だというのだから、余計に人々の耳目を集めた。
人は、“何者ともつかぬ者”に惹かれる。
名前のない剣士ほど、語り継がれる素地があるものだ。
※
道場の門下生たちがその話を耳にしたのは、文月の訪問から十日ほどが経った頃だった。
小太郎が、麓の茶屋で出た話を持ち帰ってきた。
「なあ、知ってるか? “白い剣士”の話」
夕方の稽古終わり、縁側で握り飯を食べていた榎本と新藤のもとに駆け寄るようにして言った。
「また妙なことを言いだしたな」
新藤が口をしかめる。
「でも本当だって。町の人が言ってた。“山の上に、剣を持った影が現れる”って。しかも子どもだって。白い着物で、誰よりも早く動くって」
榎本は手を止めた。
「……それが、静のことだと?」
小太郎は肩をすくめた。
「知らない。でもさ、あの子って、いつも白い着物着てるし、声も小さいし、音もしないし、なんか、そういうの……本当に、ありそうでしょ?」
その言葉に、榎本も新藤も答えなかった。
ただ、視線を道場の奥に向けた。
静は、ひとり庭の隅で黙々と素振りをしていた。
その姿はいつもと変わらず、竹林の音をかき消すようでもなく、逆にその音のなかに溶け込むようでもあった。
それは、風と同じだった。
※
数日後、道場に珍しい訪問者があった。
麓の町に住む、旅籠の女将である。
彼女は宗兵衛の知人だったが、道場に足を運ぶのは年に一度あるかないかだった。
その彼女が、珍しくお土産の団子を抱えて訪ねてきたのだ。
「……少し、気になることがありましてねぇ」
茶を淹れた榎本が戸口で話を聞くと、女将は眉をひそめて言った。
「最近、変な連中が町に出入りしてるんですよ。旅の振りをして、ずいぶんと村の方まで来てるらしい。話を聞いてみたら、“白い剣士を見た”とか、そんなことを……」
榎本の背筋が微かに震えた。
「噂です。確かに、噂。でも、あれは人の好奇心ってやつを煽りますからね。“本当にいるのか?”って、見にくる奴が増えるんです」
「……静のことだと?」
女将は言葉を濁したが、ほぼ肯定だった。
「――誰かが、話を広げている」
※
その夜、榎本は宗兵衛に報告した。
縁側に座る師の背は、やはりどこか遠くを見ていた。
静の姿を追っているようでもあり、追われているようでもあった。
「……放っておくのが一番だ」
宗兵衛の言葉は短かった。
「ですが、外からの目が――」
「目を向けられぬようにできるほど、我々は器用ではない。静は、いずれ見つかる。ならば――」
宗兵衛は少し黙し、夜空を仰いだ。
「ならば、誰の目にどう映るかを、見極めることだ。真実を語る必要はない。だが、嘘を重ねすぎれば、彼がいちばん傷つく」
榎本は黙って頷いた。
※
静自身は、その“噂”について、何も言わなかった。
ただ、ある日、小太郎が好奇心に負けて尋ねたことがあった。
「静、お前ってさ、本当は何人か斬ったことあるんじゃないか?」
庭掃除の最中だった。
静は手を止めなかった。
土を掃く音がつづいていた。
しばらく経って、小さく言った。
「わかりません。でも、斬っても、忘れてしまうなら、それはしてないのと同じかもしれません」
小太郎は返す言葉を持たなかった。
※
夕方、道場に客が現れた。
笠をかぶった、背の高い男。
腰には刀、旅人の装束。
しかし、どこか軍の者のような眼差しがあった。
「すまぬ。こちらに、白装束の少年がいると聞いた」
宗兵衛が応対に出た。
「誰が、その名を語ったか」
「町の者が言っていた。“音もなく斬る子ども”がいると」
「そういう子はおらん」
宗兵衛は即答した。
男はしばらく黙っていたが、やがて礼をして去った。
それで終わったのかは、誰にもわからなかった。
だが、その日から、静はまた一層、言葉を失っていったように見えた。
※
風が強まっていた。
季節は変わろうとしていた。
静は、それでも剣を振っていた。
言葉を持たず、ただの影のように。
けれど、いつしか“彼を見た”と語る者が増えていた。
彼の剣は、物語になる準備を、もう終えてしまっていたのだ。



