第六話「名もなき剣、雪に還る」
雪の深まる頃、山間にひとつの塚がある。
名もなく、石碑もなく、ただ白く丸く盛り上がった土の影。
誰が手向けたとも知れぬ木の枝が、そこに小さく挿してあるだけ。
その場所には、ひとつの逸話が残っている。
かつて、この山のどこかで「白の剣士」がいたという。
それは鬼神だったと語る者がいる。
それは聖者だったと語る者もいる。
人ではなかった。
あるいは、あまりに人だった。
彼の名は、誰も知らない。
彼の姿を、見た者がいるとも言われている。
だがそれは誰もが別々の顔を語り、別々の眼差しを思い出す。
ある者は言う。
白装束のその剣士は、雪のように降りてきて、雪のように消えていったと。
ある者は言う。
その剣士は、剣の鞘だけを残して山のなかに消えたと。
ある者は、ただぽつりと、こう呟いた。
「名もなき剣だった」
伝えられるのは、地に残された赤い痕と、
白い鞘がひとつ、枝にかかっていたということだけ。
それを拾った者がいたのか、いなかったのかさえ定かではない。
いずれにせよ、白鞘はいつのまにか失われ、雪とともに埋もれた。
彼が何を願っていたのか。
彼が何を護りたかったのか。
誰も知らない。
ただ、ある年の雪解けの頃、
ふもとの村に、こんな風の便りが届いたという。
「山の奥に、誰かが静かに眠るような場所がある」
それを探す者もいた。
けれど誰一人、その場所を見つけられなかった。
ある僧侶は言った。
「その者は、英雄にならぬために、名を捨てた」
ある老婆は言った。
「その者は、ひとを斬りすぎて、声を失った」
ある兵は言った。
「……俺の命を、あの剣が救った」
真実は、雪に埋もれた。
証拠も、記録も、痕跡もない。
ただ、そこに誰かがいたのではないかという“気配”だけが、確かに残った。
今もときおり、冬の夜更けに――
白装束をまとい、森の奥を歩く影を見たという話が、村の子どもたちのあいだで囁かれている。
それが誰なのか、誰も知らない。
そして物語は、こう結ばれる。
――彼の名を、誰も知らなかった。
(完)
雪の深まる頃、山間にひとつの塚がある。
名もなく、石碑もなく、ただ白く丸く盛り上がった土の影。
誰が手向けたとも知れぬ木の枝が、そこに小さく挿してあるだけ。
その場所には、ひとつの逸話が残っている。
かつて、この山のどこかで「白の剣士」がいたという。
それは鬼神だったと語る者がいる。
それは聖者だったと語る者もいる。
人ではなかった。
あるいは、あまりに人だった。
彼の名は、誰も知らない。
彼の姿を、見た者がいるとも言われている。
だがそれは誰もが別々の顔を語り、別々の眼差しを思い出す。
ある者は言う。
白装束のその剣士は、雪のように降りてきて、雪のように消えていったと。
ある者は言う。
その剣士は、剣の鞘だけを残して山のなかに消えたと。
ある者は、ただぽつりと、こう呟いた。
「名もなき剣だった」
伝えられるのは、地に残された赤い痕と、
白い鞘がひとつ、枝にかかっていたということだけ。
それを拾った者がいたのか、いなかったのかさえ定かではない。
いずれにせよ、白鞘はいつのまにか失われ、雪とともに埋もれた。
彼が何を願っていたのか。
彼が何を護りたかったのか。
誰も知らない。
ただ、ある年の雪解けの頃、
ふもとの村に、こんな風の便りが届いたという。
「山の奥に、誰かが静かに眠るような場所がある」
それを探す者もいた。
けれど誰一人、その場所を見つけられなかった。
ある僧侶は言った。
「その者は、英雄にならぬために、名を捨てた」
ある老婆は言った。
「その者は、ひとを斬りすぎて、声を失った」
ある兵は言った。
「……俺の命を、あの剣が救った」
真実は、雪に埋もれた。
証拠も、記録も、痕跡もない。
ただ、そこに誰かがいたのではないかという“気配”だけが、確かに残った。
今もときおり、冬の夜更けに――
白装束をまとい、森の奥を歩く影を見たという話が、村の子どもたちのあいだで囁かれている。
それが誰なのか、誰も知らない。
そして物語は、こう結ばれる。
――彼の名を、誰も知らなかった。
(完)



