名もなき剣に、雪が降る

第五話「斜陽の影」

 ――あれは、夢だったのだろうか。


 地が、遠い。
 風が、音を失ってゆく。
 己が踏みしめるはずの足元が、かすかに、空へ浮いている。
 
 気づけば、そこは森だった。
 どこまでも灰色に沈む山道、湿った落ち葉が幾重にも積もる地面。
 木々の隙間から斜陽が、淡く、地を照らしていた。
 ――ここは、どこだ。
 自分の足が、どこに向かっているのかさえ、もうわからない。
 血の匂いが、する。
 だがそれが誰のものかも定かではない。
 衣は裂け、右の肩口にはまだ温もりのある傷。
 左わき腹と右胸はすでに、感覚すらなかった。
 一歩、また一歩。
 背中に剣があった気がしたが、もうそれも、どこかに落としてきた。
 腕が重い。目が霞む。
 けれど、足だけが止まらない。止め方を、忘れてしまったようだった。
 
 やがて、地が緩やかに傾斜し、そこに小さな窪みがあった。
 まるで誰かが、そこに眠るために掘ったような、自然な凹み。
 沖田は、静かにその場所に腰を下ろした。
 
 ……眠ってしまおうか。

 誰も来ない。誰も気づかない。
 それでいい。それを、望んでいたはずだ。
 
 けれど。
 目を閉じかけたそのとき――
 
 遠く、誰かの声が、した。
 
「……静」
 
 矢野の声だった。
 ふと、目の裏に浮かぶ。
 笑った顔、怒った顔、黙って剣を構える後ろ姿。
 
 戦場の光景が、断片的に去来する。
 咲き乱れる血飛沫。絶命の叫び。足元の死体。手に絡みついた髪。声。声。声――
 
 ……もう、いい。
 もう充分、見た。
 
 ああ、矢野さん。
 僕は、貴方に出会えてしまった。
 
 だからこそ、ここまで来てしまった。
 もし出会わなければ――
 もし誰にも見つけられなければ――
 
 ただの刃だった。
 ただの、名もなき剣だった。
 
 名は、要らない。
 人の世に、残す名など要らない。
 
 もし誰かが語るのなら、それは――
 生き延びた者の語りであってほしい。
 
 沖田は、そっと瞼を伏せた。
 風が、吹いた。
 
 その頬を、何かが伝った。
 涙ではない。もう、何も感じない。けれど。
 
 斜陽のなか、誰にも知られず、誰にも見られず、
 ひとつの命が、音もなく座していた。
 
「名を残すな……名を持たずに、逝け」
 
 それは、自分自身の声だった。
 どこからか聞こえた幻の声が、最後に彼の耳に届いた言葉だった。
 
 雪が降り始めていた。
 
 誰にも見送られずに、静かに、影が溶けていった。