名もなき剣に、雪が降る

第四話「英雄にしないでくれ」
 
 “見ていない”ことほど、残酷なことはなかった。
 戦いの後、幾度となく同じ夢を見た。
 斜面を駆け下りていく白い背中。
 もう二度と戻ってこないだろうという、確かな直感。
 あのとき叫んだ。「静」と。
 振り返らなかった。振り返ってしまえば、たぶん彼は、死ぬことを諦めただろう。
 だから――そのまま、彼は消えた。
 
 終戦後、軍の報告書が編纂され始めた。
 戦果を整理し、誰がどこでどう命を落としたか、紙の上に“記録”されていく。
 矢野は、それを黙って見ていた。
 それが当然の務めであり、職務であり、名誉であり、そして誰かを“語る”ための形式だということも、頭では理解していた。
 だが、沖田静の名がその報告書に現れたとき、矢野の喉奥からひとつ、異物のような熱がせりあがった。
 ――「沖田静。戦功により、特級武功章を授与予定。戦死。最期の地は敵将との一騎討ち。名誉ある死」――
 笑えた。
 あの人が、そんなものを望んだとでも思っているのか。
 
 顕彰式典の打診があったのは、それからまもなくのことだった。
 軍本部の広報官が丁寧な手紙を添え、「遺族代行者としての出席を」と促してきた。
 矢野は返事を出さなかった。
 いや、出せなかったのだ。
 紙の上に「沖田静」という名が“戦功”として飾られているのを見るたび、
 胸のどこかがちぎれるように痛んだ。
 
 ある日、矢野はひとりで、軍の上層部のもとへ出向いた。
 命じられたわけでも、招かれたわけでもない。ただ、抑えきれなかった。
「……お願いです。沖田静を、英雄にしないでください」
 軍帽を脱ぎ、深く頭を下げる。
「その人は、そういうふうに語られることを、きっと望んでいません」
 上官たちは、最初こそ困惑の色を見せた。
 けれど矢野が話すに連れて、その顔が少しずつ、沈黙に沈んでいった。
「名誉は、生き残った者が与えるものではないと思います」
「彼は……あの人は、誰にも看取られずに、どこかへ行った。だからこそ意味があるんです」
「誰にも語られない死を、選んだ人なんです。だから……」
「英雄なんかじゃなかった。俺が、いちばんそれを知っている」
 過去の記憶が去来する。
 人を斬るたび、あの人は苦しそうだった。
 夜に膝を抱え、遠くの音に耳を澄ませるように、眉をひそめていた。
 それでも剣を握り続けたのは、他に道がなかったからだ。
 血の海に立つたび、「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせていた。


 そんな人を、名誉で飾るなんて。
 あの人が“いなくなった”のは、そういうものから逃れるためだったのに。
 矢野は、最後にひとことだけ絞り出した。
 
「……お願いです。あの人を、そっとしてやってください」
 
 しばらくの沈黙の後、上層部の一人が口を開いた。
「記録は残す。ただ、顕彰の件は――見送りにしておこう」
 
 矢野は深く頭を下げた。
 何かを勝ち取ったつもりはなかった。ただ、それだけでよかったのだ。
 
 帰り道。
 雪が舞っていた。街道の屋根に、白く薄く積もっていた。
 その上に、ひとすじの風が吹いて、あとかたもなくさらっていった。
 矢野はふと、空を見上げる。
 雪は、音を立てずに、降りてくる。
 それがまるで、かつて白装束に身を包み、誰にも見送られず去っていった彼の――
 最後の足音のように思えた。