第三話「血痕と鞘」
(一)
雪解けの早かった年だった。
山の猟師である源蔵は、例年よりも三日早く罠の見回りに出た。
斜面の風はまだ冷たく、木々の幹には戦の残り香がこびりついていた。黒ずんだ血の痕跡、焦げ跡、踏み荒らされた獣道。それらは、まだ“山が平穏を取り戻していない”ことを告げていた。
その日、源蔵がその場に足を止めたのは、罠でも獣でもなく、“静けさ”だった。
――この辺りだけ、音がない。
鳥も鳴かず、風も立たず、葉擦れの音さえ凍ったように途絶えている。
不意に、そこに「人の手が触れた痕跡」があった。
雪を踏み分けた足跡――片方は深く沈み、もう片方はかすれたように浅い。片足を引きずる者の歩幅。斜面を這い上がるようにして残されたその軌跡は、ひとつの岩場で止まっていた。
源蔵は息をのんだ。
そこには、白布に丁寧に包まれた“剣の鞘”があった。
古びたもので、刃は差されていなかった。ただ、布の裾ににじむ赤黒い血の痕だけが、それが“戦のもの”であったことを物語っていた。
すぐ隣には、人が倒れ込んだような雪の凹み。
だが、遺体はなかった。
周囲には争った跡もない。獣に引き裂かれた形跡もない。ただ、“誰かがそこにいて、しばらく動かなかった”という気配だけがあった。
「……眠るようだったんだ」
源蔵は、後にその場を訪れた衛生兵にそう語った。
「ほら、あるじゃろう、死人が出る時だけ、空気が沈む場所。あの感じに、そっくりだった」
(二)
その話は、しばらく山里の間だけで囁かれていた。
けれどもある日、戦から生還したひとりの兵士が、その話を聞いてぽつりと呟いた。
「ああ……それ……沖田さんだ」
篠田という名の若い兵士だった。肩に深手を負って戻ってきた彼は、療養中に源蔵の証言を耳にして、確信をもって答えた。
「最後、あの人が山の方へ向かったのを見た。俺は動けなかったけど、矢野さんも源田も、その背中を見てた」
「それは、逃げたってことか?」
誰かが無神経に問い返す。
篠田は首を横に振った。
「違う。……あの人は、戻る気がなかったんだ」
「じゃあ、死んだのか?」
今度は、問いが慎重に変わった。
それにも篠田は即答しなかった。けれど、その顔に刻まれたものがすべてを物語っていた。
静かに目を伏せ、彼は言った。
「……死ぬために、行ったんだよ。俺たちが“英雄にしてしまう前”に」
(三)
それ以降、白布に包まれた鞘の話は、さまざまな尾ひれをつけて語られるようになる。
――「あれは慰霊碑だった」「あそこで眠っている」
――「あの剣を探せば、願いが叶う」
――「あの場所に近づくと、夢に“白い剣士”が出る」
どれもが、確かではなかった。
けれど、源蔵が見たもの、篠田が語った言葉、それらはどれもが“存在しないはずの最期”を確かに形作っていた。
山には、墓標も名札もなかった。
ただ、風だけが知っていた。
あの剣士が、最後に見た空の色と、頬を撫でた風の温度を。
(一)
雪解けの早かった年だった。
山の猟師である源蔵は、例年よりも三日早く罠の見回りに出た。
斜面の風はまだ冷たく、木々の幹には戦の残り香がこびりついていた。黒ずんだ血の痕跡、焦げ跡、踏み荒らされた獣道。それらは、まだ“山が平穏を取り戻していない”ことを告げていた。
その日、源蔵がその場に足を止めたのは、罠でも獣でもなく、“静けさ”だった。
――この辺りだけ、音がない。
鳥も鳴かず、風も立たず、葉擦れの音さえ凍ったように途絶えている。
不意に、そこに「人の手が触れた痕跡」があった。
雪を踏み分けた足跡――片方は深く沈み、もう片方はかすれたように浅い。片足を引きずる者の歩幅。斜面を這い上がるようにして残されたその軌跡は、ひとつの岩場で止まっていた。
源蔵は息をのんだ。
そこには、白布に丁寧に包まれた“剣の鞘”があった。
古びたもので、刃は差されていなかった。ただ、布の裾ににじむ赤黒い血の痕だけが、それが“戦のもの”であったことを物語っていた。
すぐ隣には、人が倒れ込んだような雪の凹み。
だが、遺体はなかった。
周囲には争った跡もない。獣に引き裂かれた形跡もない。ただ、“誰かがそこにいて、しばらく動かなかった”という気配だけがあった。
「……眠るようだったんだ」
源蔵は、後にその場を訪れた衛生兵にそう語った。
「ほら、あるじゃろう、死人が出る時だけ、空気が沈む場所。あの感じに、そっくりだった」
(二)
その話は、しばらく山里の間だけで囁かれていた。
けれどもある日、戦から生還したひとりの兵士が、その話を聞いてぽつりと呟いた。
「ああ……それ……沖田さんだ」
篠田という名の若い兵士だった。肩に深手を負って戻ってきた彼は、療養中に源蔵の証言を耳にして、確信をもって答えた。
「最後、あの人が山の方へ向かったのを見た。俺は動けなかったけど、矢野さんも源田も、その背中を見てた」
「それは、逃げたってことか?」
誰かが無神経に問い返す。
篠田は首を横に振った。
「違う。……あの人は、戻る気がなかったんだ」
「じゃあ、死んだのか?」
今度は、問いが慎重に変わった。
それにも篠田は即答しなかった。けれど、その顔に刻まれたものがすべてを物語っていた。
静かに目を伏せ、彼は言った。
「……死ぬために、行ったんだよ。俺たちが“英雄にしてしまう前”に」
(三)
それ以降、白布に包まれた鞘の話は、さまざまな尾ひれをつけて語られるようになる。
――「あれは慰霊碑だった」「あそこで眠っている」
――「あの剣を探せば、願いが叶う」
――「あの場所に近づくと、夢に“白い剣士”が出る」
どれもが、確かではなかった。
けれど、源蔵が見たもの、篠田が語った言葉、それらはどれもが“存在しないはずの最期”を確かに形作っていた。
山には、墓標も名札もなかった。
ただ、風だけが知っていた。
あの剣士が、最後に見た空の色と、頬を撫でた風の温度を。



