第二話「名簿に残らぬ者」
野戦病舎に、最後の血の匂いが消えたのは、春を迎えてしばらくのことだった。
傷口の縫合、膿の処理、死亡報告と埋葬許可の署名――そのすべてが繰り返される一月のあいだ、看護長である私は、生きている者の声より、死者の名簿の整理に多くの時間を費やしていた。
数百、数千に及ぶ犠牲者の名は、ひとりひとり手作業で照合される。前線での仮名簿、衛生班の搬送記録、伝令が持ち帰った走り書き、そして軍の正式報告。
それらの束を捲るうちに、私はあるひとつの名に何度も目を止めることになる。
――沖田静。
その名は、どの名簿にも“必ずあるのに”、どの名簿にも“確かな死が記されていない”名前だった。
「この者……遺体は?」
私は軍医のひとりに訊ねた。眼鏡の奥の目が、乾いた帳面を見下ろす。
「確認されていません。目撃者もいません。戦死との報告は、ほとんどが状況証拠によるものです」
彼の言葉は、いつも通り抑揚がなく事務的だったが、どこか一瞬だけ迷いを帯びたように見えた。
「戦死、未確定?」
「はい。報告書には、そう記されています。“敵七十八名を斃した剣士、行方知れず”と」
私は、戦後の混乱のなかに埋もれていた別紙の目録を引っ張り出した。そこには、衛生記録とは異なる記述が綴られていた。
一兵士の証言。名もない従軍炊事係が残した走り書き。どれもが曖昧で、しかし不思議な一致を見せていた。
――「仲間の死体の隣に、白装束の剣士が立っていた」
――「血にまみれ、何も言わず、その場から姿を消した」
――「傷ひとつ手当を受けた記録がないのに、常に戦場にいた」
私たちの間で“白装束の剣士”と呼ばれていたその人の医療記録は、一枚も残っていなかった。
どれほどの戦に身を投じても、沖田静の名が負傷者名簿に上がることは一度もなかった。衛生兵が接触した記録もなく、包帯ひとつ施したという証言さえ存在しない。
まるで彼は、“癒されることを拒む身体”であったかのようだった。
「……名簿に残らぬ者、ですな」
軍医が、静かにそう呟いた。
私は、返す言葉が見つからなかった。記録をなぞることで初めて明るみに出る“不在”という存在。その名が何度も登場するのに、なにひとつ確定されない奇妙な人物。それが――沖田静だった。
死は、確認されていない。
生も、記録にない。
私は記録者として、彼を「いた」と記すことができず、「いなかった」とも書くことができない。
帳簿の最下段、その名前の右に、小さく震えるような字で書き添えた。
――未確認/記録不備/白装束目撃複数。
それが、私にできたすべてだった。
野戦病舎に、最後の血の匂いが消えたのは、春を迎えてしばらくのことだった。
傷口の縫合、膿の処理、死亡報告と埋葬許可の署名――そのすべてが繰り返される一月のあいだ、看護長である私は、生きている者の声より、死者の名簿の整理に多くの時間を費やしていた。
数百、数千に及ぶ犠牲者の名は、ひとりひとり手作業で照合される。前線での仮名簿、衛生班の搬送記録、伝令が持ち帰った走り書き、そして軍の正式報告。
それらの束を捲るうちに、私はあるひとつの名に何度も目を止めることになる。
――沖田静。
その名は、どの名簿にも“必ずあるのに”、どの名簿にも“確かな死が記されていない”名前だった。
「この者……遺体は?」
私は軍医のひとりに訊ねた。眼鏡の奥の目が、乾いた帳面を見下ろす。
「確認されていません。目撃者もいません。戦死との報告は、ほとんどが状況証拠によるものです」
彼の言葉は、いつも通り抑揚がなく事務的だったが、どこか一瞬だけ迷いを帯びたように見えた。
「戦死、未確定?」
「はい。報告書には、そう記されています。“敵七十八名を斃した剣士、行方知れず”と」
私は、戦後の混乱のなかに埋もれていた別紙の目録を引っ張り出した。そこには、衛生記録とは異なる記述が綴られていた。
一兵士の証言。名もない従軍炊事係が残した走り書き。どれもが曖昧で、しかし不思議な一致を見せていた。
――「仲間の死体の隣に、白装束の剣士が立っていた」
――「血にまみれ、何も言わず、その場から姿を消した」
――「傷ひとつ手当を受けた記録がないのに、常に戦場にいた」
私たちの間で“白装束の剣士”と呼ばれていたその人の医療記録は、一枚も残っていなかった。
どれほどの戦に身を投じても、沖田静の名が負傷者名簿に上がることは一度もなかった。衛生兵が接触した記録もなく、包帯ひとつ施したという証言さえ存在しない。
まるで彼は、“癒されることを拒む身体”であったかのようだった。
「……名簿に残らぬ者、ですな」
軍医が、静かにそう呟いた。
私は、返す言葉が見つからなかった。記録をなぞることで初めて明るみに出る“不在”という存在。その名が何度も登場するのに、なにひとつ確定されない奇妙な人物。それが――沖田静だった。
死は、確認されていない。
生も、記録にない。
私は記録者として、彼を「いた」と記すことができず、「いなかった」とも書くことができない。
帳簿の最下段、その名前の右に、小さく震えるような字で書き添えた。
――未確認/記録不備/白装束目撃複数。
それが、私にできたすべてだった。



