名もなき剣に、雪が降る

第五話 「灰と硝子と、春を越える風」

 風は高く抜けていた。
 春の気配はまだ村に残っていたが、それは何かの名残のように、どこか所在なく漂っているだけだった。
 花は咲いても、香らなかった。木々は芽吹いても、柔らかな青さを見せることはなかった。
 その年、村の空はやけに“遠かった”と、人々はのちに語る。
 空を見上げる者は減り、風を読む者だけが、ただ目を伏せて耳を澄ました。
 何かが、変わりはじめていた。
 それは音もなく、匂いもなく、ひたひたと水が染みるように、静かに足元を満たしていく変化だった。
     ※
 視察役・文月が去ったあとの道場には、しばしの沈黙があった。
 言葉にできないものを、誰もが口に出そうとはしなかった。
 それは“空気”として残っていた。
 竹刀を振る音の裏に、掃除をする足音の影に、茶を啜る湯気のなかに。
 宗兵衛は、何も言わなかった。
 彼が言葉を飲み込むとき、それは往々にして「いずれ来る波に、先に立って抗っても無意味である」と見極めたときだった。
 老練の剣士にとって、剣とは“水に立つ橋”のようなものだ。
 重ねた稽古は力ではなく流れを知るためのものであり、技術とは己を律するための器に過ぎない。
 だから、彼はわかっていた。
 文月が最後に残した言葉――
「……あの子を、“ここ”に置くには、大きすぎる」
 それは警告ではない。
 ただの“予告”であり、“通知”であったのだと。
 嵐は、やがて来る。
 名もなき少年の周囲に、風はすでに巻きはじめていた。
     ※
 視察報告は、文月の手によって短く、端的に記された。
 彼は多くを語らなかった。
 だが、そのなかにいくつかの言葉だけが、印となって残された。
 ――“即応的天賦の剣筋を有する、無名の少年あり”
 ――“反応と間合いの判断、極めて異常。型に拠らず、殺の構えを制しておる”
 ――“白布のごとく、印象を持たぬ。然れど眼に映れば、強く焼きつく”
 報告は軍の書記局へと届き、そこから軍監察室を経て、中央の選抜局に提出された。
 わずか一週間後、白封筒が宗兵衛のもとへ届いた。
     ※
 その封筒を開くとき、宗兵衛の手はわずかに震えた。
 文字は端正だった。内容は短かった。
 しかし、その簡潔さが逆に、背筋を冷たくした。
 > 拝啓
 >
 > 当国軍部、選抜局より通知申し上げます。
 >
 > 剣心館において特段の技量を有する少年一名、当局の注視対象として登録するものといたします。
 >
 > 必要あらば、後日、召見の旨を別途通達いたします。
 >
 > 本通知は、貴道場における少年育成に不都合を与えるものではなく、今後の適正な配属検討のためのものであることを、特に申し添えます。
 >
 > 敬具
 そこには名前がなかった。
「沖田静」の文字は、どこにも記されていなかった。
 それでも、宗兵衛にはわかっていた。
 名が書かれていないことが、何よりも恐ろしかった。
     ※
 その夜、宗兵衛は榎本を呼んだ。
 縁側には夜の風が吹いていた。月は細く、山の端にかかっていた。
「……来たのですか」
 榎本の問いに、宗兵衛は頷いた。
「今のうちは“通達”に過ぎぬ。拘束力も、命令でもない。だが、布石にはなる」
「“布石”……」
「いずれ“徴”が来る。軍というものは、ひとたび目をつけたら逃さぬ」
 榎本は言葉を失った。
 宗兵衛が、決して冗談を言わぬことを知っていた。
「……僕に、何かできるでしょうか」
 その問いに、宗兵衛はしばらく黙していた。
 やがて、ぽつりと答えた。
「“見守る”ということが、どれほど重いかを知るがいい」
 それは、「助けろ」とも「守れ」とも言わない言葉だった。
 けれど、それこそが、最も深く、長く続く祈りのかたちだった。
     ※
 翌朝。静は変わらず、道場にいた。
 何事もなかったかのように、床を拭き、木刀を持ち、稽古を始めていた。
第五話 「灰と硝子と、春を越える風」

 外からの風など、届いていないかのように。
 だが、榎本はわかっていた。
 静も、気づいている。
 文月の視線の意味を、手紙の重みを、周囲の変化を。
 それでも、彼は言わない。何も語らない。
 なぜなら――
 彼は“名がないまま”、生きる覚悟をすでに決めていたからだ。
 それは、逃げではなかった。
 立ち向かうでもなかった。
 ただ、“そのまま在り続ける”という、生きる姿勢だった。
     ※
 その日の午後、静は珍しく、自ら宗兵衛に声をかけた。
「師範」
「……なんだ」
「僕の剣は、正しいですか」
 宗兵衛は、目を細めた。
「正しさというのは、何を指して言う」
「人を斬ること。守ること。選ばれること」
 静の言葉は、まるで石を積むようだった。
 一つひとつが慎重で、どこにも感情の色がない。
 宗兵衛は、しばし考え、ゆっくりと答えた。
「……おまえの剣は、おまえだけのものだ。誰のためでも、何のためでもなくていい。だが――“名”を持ったとき、その剣は違う意味を持ち始めるだろう」
 静は少し黙ったあと、問い返した。
「……では、名を持たなければ、僕は斬らずにいられますか」
 その問いに、宗兵衛は何も言わなかった。
     ※
 外の風が吹いていた。
 遠くの雲が、かすかに崩れはじめていた。
 季節はまだ春のはずだったが、空の色はすでに灰のようだった。
 静は、剣を握る手を見ていた。
 その掌のなかに、未来があるのか、過去があるのか、自分でもわからなかった。
 だが、彼は握っていた。
 ただ、静かに、指を閉じて。