名もなき剣に、雪が降る

第二十四話「雪、帰るべき名を持たず」
 敵将は、剣を手放すこともできず、ただ沖田の背中を見送っていた。
 雪のようだった。
 もはや白装束も、返り血と土埃に染まりきっていたというのに、それでもなお、彼の背は美しかった。
(……あれが、人か……)
 己の胸に深く刺さった剣の熱が、まだ脈打つ鼓動を伝えていた。
 命は確実に、削れている。
 肺にたまった血が、気道を塞ぎ、言葉すら出せぬまま、視界は暗く沈んでいく。
 敵将は、最後の力でわずかに首を持ち上げようとした。
 だが動くのはまぶたと唇だけで、それ以上は、叶わなかった。
 その視界の片隅――山の斜面の向こうに、ふと揺らぐ影があった。
(誰だ……)
 目の錯覚か、風が運んだ幻か。
 ひとつの人影が、沖田の後を追うように、茂みのなかに消えていった。
 それはもはや兵ではなく、黒衣の少年とも見えたし、
 戦場に取り残された影の化身のようにも思えた。
(……誰か、見ていたのか)
 自分たちの決着を。
 沖田静という、存在そのものを。
 それだけを胸に、敵将はほんのわずかだけ目を細め――
 そして、静かに瞼を閉じた。
 最後に彼が思ったのは、敗北でもなく、名誉でもなかった。
 ――これは、物語になる。
 自分ではない。
 あの剣士の、生と死と、あまりに哀しい咆哮が。
 誰かが書き記すべき「名もなき者の記録」として、
 この戦場の片隅から、いつか語られるべき物語になる。
 そう、確信していた。
 その思念を最後に、敵将の意識は、ようやく沈んでいった。
     ※
 数日後。
 残党兵が、荒れ果てた戦場を訪れた。
 そこに、敵将の亡骸があった。
 ただひとり、剣を握ったまま、仰向けに。
 眼前には、地に突き立てられた剣が一本――
 沖田静が、その場に残していった、無銘の刀だった。
 それはのちに「雪降る野に遺された剣」と呼ばれ、
 名を持たぬまま、語り草となったという。