名もなき剣に、雪が降る

第二十三話「魂の檻を越えて」

 刹那――風が凍った。
 敵将の槍が沖田の胸を貫いた瞬間、あたりの音という音が、すべて遠ざかったように感じられた。
 血の匂いも、誰かの叫びも、地鳴りのような戦場の足音も。
 何もなかった。
 ただ、沖田の身体を槍が貫き、その切っ先が背を抜けたとき、
 彼自身の身体の中にあった“何か”が、音もなく砕けた気がした。
 ぐらり、と視界が傾ぐ。
 腹の奥で、骨と肉が震えた。肺が、音もなく潰れていく感覚。
 それでも、沖田は膝を折らなかった。
 ぐ、っと槍を握った敵将が、言葉を発するより早く――
 沖田は、自らの身体に突き立てられた槍を、無理やり抜いた。剣を振るうのに邪魔だったからだ。
 胸から、音を立てて血が噴き出す。
 まるで、心臓がそのまま破れたかのように。
 敵将の瞳が揺れる間もなく――沖田の足が地を蹴っていた。
「……まだ」
 吐息のように零れた言葉が、風に紛れて、散っていった。
 血飛沫を曳きながら、沖田は剣を振るった。
 倒れ込むかのように低く身を沈め、敵将の足元に斬り込む。
 刀身がぶつかる音。火花が散る。
 敵将が大太刀で受けた。
 その膂力は強靱だった。だが、剣筋が揺れていた。
 まるで、恐れが腕に伝わっているかのように。
 二合、三合、四合――
 刃が鳴るたび、沖田の口から、また血がこぼれた。
 それでも構わず、斬る。
 生き残った味方の名を脳裏に浮かべる。
 今村、篠田、源田、そして……矢野。
(ここで、終わってたまるか)
 膝が震える。
 視界が白む。
 それでも、沖田の剣は止まらない。
 敵将は、目の前の青年が血を撒き散らしながらも、なお一歩も退かずに立っていることに、理解が追いつかずにいた。
 それは、剣技でもなければ、戦術でもない。
 ただ――魂の咆哮だった。
「……おまえは、何者だ」
 思わず、そう零れた敵将の問いに、沖田は微かに眉をひそめた。
 だが答えなかった。答えるだけの気力を残していなかったのかもしれないし、
 あるいは、その問いこそが、沖田自身がいまだ答えを持たぬ“問い”だったからかもしれない。
 ふらり、と沖田の身体が揺らぐ。
 血が地を染める音がする。
 敵将は斬りかかった。
 沖田も、応じた。
 刃と刃がぶつかり合うたびに、世界が震えたように思えた。
 一太刀ごとに、沖田の白装束は赤く染まっていく。
 それでも、彼の眼は曇らなかった。
 いや、むしろ――澄んでいた。
 まるで、すべてを受け入れているような、静かな覚悟の光。
「お前のような者を……俺たちは……」
 敵将の声が、苦痛に滲む。
「英雄と呼ぶのか、それとも……鬼神と、呼ぶべきなのか……!」
「……どちらでも」
 沖田の声は、細く、途切れそうだった。
 それでも、はっきりと届いた。
「どちらでも、構いません。僕は、ただ……」
 そこまで言って、沖田の膝が崩れた。
 剣が地に落ちる音。次いで、咳き込む音。そして――
 血の吐息。
 敵将が構え直す。その瞳には、恐れと、哀しみがないまぜになっていた。
 だが、沖田はまた立ち上がった。よろめきながら、刀を拾い、前を向いた。
「……まだ終わっていません」
 それが――魂の声だった。
 戦場の空気が、裂けるようだった。
 人の体温の残る土が、膝に伝う。
 それでも沖田は、膝をついたまま敵将を見据え、再び立ち上がろうとしていた。
 ――もういい。もう、斬らなくていいんだ。
 どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
 けれど沖田は、かすかに首を振った。
 まだ、守りきれていない。
 まだ、終わらせてはならない。
 敵将は、満身創痍の青年に剣を向けながら、一瞬だけ躊躇した。
 それは“戦”を司る者としてあるまじき迷いだった。だが、迷わずにはいられなかった。
 この青年の姿が、人のものとは思えなかった。
 鬼でもなく、神でもなく――
 ただ、ひとつの魂のかたちをしていた。
 剣を構え直し、沖田が踏み出す。
 ふたりの刃が、互いの距離を裂いた。
 そして、――相打ち。
 敵将の胸元を、沖田の剣が深く穿ち、沖田の脇腹には、敵将の刀が届いていた。
 もつれ合うように、ふたりの体が崩れる。
 敵将は、仰向けに倒れたまま、血の海に沈む視界で、かろうじて沖田を見た。
「……とどめを、させ……」
 敵将の口元が動く。
 沖田は、剣を引き抜き、最後の力を振り絞って敵将の上に立った。
 そして両手で敵将の喉元を狙う。
 そうしたところで、身を捩り激しく血を吐いた。
 沖田の右手が小さく震える。喘ぐように酸素を求めるその背に、敵将は目をつりあげて咆哮した。

「何をためらう! お前は、……お前はァ! 何百、何千とこれまで斬ってきただろう! 我々の同志を――――!」

 沖田は仰臥する敵将の傍で背中を丸め、肩を震わせていた。
 ようやく、呼吸が落ち着いたところで、顔を上げる。返り血や自らの血液のその先にある彼本来の肌は、紙のように白かった。
「……あなたは、まだ、生きたいですか」
 その問いに、敵将は驚いたように目を見開いた。
「……わからん。わからんが……戦う者には、終わりを告げられることが必要だろう。……悔しいが、お前には、その資格が、ある」
 沖田は震える手で再び敵将の喉元に剣先を構えた。
 その両手の震えがだんだん増してくる。
 ふと、敵将の頬に――ぽたりと、涙が落ちた。
 それは、敵将のものではなかった。
 沖田は、ふっと小さく目を閉じ、静かに剣を地に突き刺すと、それをそのまま置いた。
 敵将が「なぜ……」と呻いたその傍らで、沖田はそっと、背を向けた。
 その背には、もはや戦意も鬼気もなく――ただ、ひとりの若者が、生に抗うように歩む影があった。
 血を引きずりながら、沖田静は、ずるりずるりと山の奥へと姿を消していく。
 振り返ることはなかった。
 誰にも看取られず、名も刻まれず。
 ただ、ひとつの魂が、雪のように――
 静かに、消えていった。