名もなき剣に、雪が降る

第二十二話「剣の向こう、聲の彼方」

 剣が、鳴いた。
 風の音よりも静かに、鉄の重みよりも儚く。あれほどまでに濃密だった殺気が、ふと、霧散するように揺らいだ瞬間があった。
 沖田静の剣先は、地を穿つでも、空を裂くでもなく、ただその一点に沈んでいた。足もとに積まれた亡骸の、そのうちの一人が、まだ完全に絶命していなかったのか、小さな咳をした。
 その音に、沖田の目が細められる。
 息を吸い、吐く。ただ、それだけの行為でさえ、剣となる気配をまとっていた。剣を持つ手の力は衰えておらず、むしろ研ぎ澄まされている。だがその手のひらには、わずかに震えがあった。
 地面に転がる兵の一人が、刃を向けてくるでもなく、ただ身体を起こそうとしていた。既に肋骨は砕け、視界は血で濡れている。その目が沖田を見たとき――
「……やっぱり、おまえ、化け物だ」
 血を吐くような声で、男が言った。
 沖田は何も答えない。ただ、目を伏せ、ひとつ、息を吐いた。
 そのまま、足元の小太刀を拾い上げる。もはや最初に携えていた剣は砕け、次に使った刀も、敵兵の腹を断ち割ったあとで刃こぼれしていた。
 刃は折れても、戦いは終わらない。
 敵兵がひとり、またひとりと、沖田に向かってきた。彼らは沖田を見失っていた。剣の閃きが、視界のどこにもないのだ。斬られてから、自分が斬られたことに気づくような、それが“沖田静”という存在だった。

 沖田は、斬るという行為に感情を乗せなかった。
 ただそこに敵がいて、ただそこに剣があった。
 それだけのことだった。
 しかし、戦場に満ちていくその匂い――血と脂と、泥と、焼けた肉の混じった濃厚な臭気――だけが、沖田の意識の縁をじりじりと焼いていった。
 ――六十。
 その数に達したとき、沖田の掌に握られた小太刀は、ぬるりと血を吸い、手の感覚を奪っていた。もはや柄と刃の境すら見えない。ぬめる感触を、ただ制御だけで受け止めながら、沖田はまだ一歩も退いていなかった。
 丘の斜面を駆け下りたまま、彼は止まらず、止まれずにいた。
 敵兵のひとりが逃げようとする。
 その背を、沖田は追う。かつての彼なら見逃しただろう。だが今、敵を逃がすという判断は、“味方の命を敵に晒す”ことと等価だった。
 生き残った矢野の声が、遠く耳に残っていた。
 静、と呼ぶ声。
 幻聴ではなかった。
 それはたしかに、あのとき、呼び止めるように届いた聲だった。
 だが今、沖田の中にはもう、自我の声よりも、戦の鼓動が優先して鳴っていた。
 沖田の咆哮が空に割れる。大地のエネルギーを全身に吸い込んでいるかのような叫びだった。
 人間が、人間として許されぬほどのものを背負った末に放つ、魂の裂ける音だった。
 その叫びと共に、沖田の身体は跳ぶ。
 刃こぼれした剣を捨て、地に落ちていた槍を奪い取る。
 そのまま槍の柄を逆手に持ち、迫る敵兵の顔面を砕く。
 鮮血が弾ける。
 脳漿が飛ぶ。
 地に転がったその顔が、自分と同じような年齢だったことに、沖田は目を伏せることすらしなかった。
 生き残るためではない。
 護るためでもない。
 赦されぬ命を、命のままに葬るために。
 沖田静はそこにいた。
 踏みつけた大地の感触は、もはや泥でも土でもなく、柔らかなものだった。
 斬られた兵士の、潰れた胸。のたうち、呻き、命の名残を押し出していた喉元。
 沖田は目を伏せない。目を逸らさない。ただ、覚えておく。
 自分の刃で断ち切った者たちの顔と声を、記憶の底に留めておく。
 そうでなければ、自分という人間の形が、いよいよ崩れてしまうから。
 ――あといくつ。
 数えていた。
 殺した数ではなく、生きて戻るために、斬らねばならぬ数を。
 七十六、七は、おそらく超えていた。
 それでも終わりは訪れない。
 沖田の脚がわずかにもつれた。瞬間、左方から飛来した刃が、彼の白装束の右肩を裂く。
 反射で身体をねじったため致命傷にはならなかったが、布が裂け、白が赤に染まった。
 視界の端に、敵将の姿が見えた。
 漆黒の甲冑。深紅の鉢巻。両手に握った長槍。
 その佇まいは、静かに沖田のすべてを見据えていた。
「……」
 沖田は、息を吸い込む。
 地に落ちた太刀を拾う。刃は既に、血脂と肉の繊維で黒ずんでいた。
 その剣を――なおも握る。
 もはや技ではない。理でもない。
 剣と身体とが同化し、ひとつの衝動だけで動く。
 そのとき、敵将のまなざしがわずかに揺れた。
「……間違いない。こいつは――」
 敵将の唇が震え、言葉にならない声を吐いた。
「――化け物だ」
 それは、恐怖ではなかった。
 畏怖でもない。
 ただただ、「人ではない」という、生き物としての認識だった。
 静寂。
 次の瞬間。
 沖田は跳んだ。
 敵将に向かって。
 それが、地獄の終わりであり――
 さらなる地獄の幕開けだった。
     ※
 沖田は跳んだ。
 地に転がる血と骨の層を飛び越え、敵将の胸元を狙って。
 その剣が届く刹那――
 ふ、と。
 耳の奥に、風でも声でもない何かが走った。
「……静」
「静、戻ってこい……英雄になんかならなくていいんだ、静……」
 誰かが、自分の名を呼んだ。
 遠く、すでに届かないはずの場所から。
 だがその響きは確かに、沖田の胸の底、言葉にならぬ場所を震わせた。
 
 まぶたの裏に、微かに焼きついていた景色が揺らめく。
 汗に濡れた額。呼吸の浅い音。夕日を浴びた笑顔。
 あの男が――あの戦場の、唯一の同胞が言った言葉。
 ――お前が人の心を忘れそうになったら、俺が呼び止めてやるよ。
 あれは夢か、幻か。
 それとも、今この瞬間、本当にどこかから届いた聲だったのか。
 沖田の脚が、わずかに止まった。
 刹那の隙。
 敵将の目が、鋭く閃いた。
「そこだ」
 低く唸るような声とともに、槍が放たれた。
 風を割き、寸分の揺らぎもなく、一直線に沖田の胸を貫く。
 ――ず、と。
 深く、鈍い音が空気を裂いた。
 沖田の身体が、その場に凍りついたように動きを止める。
 白装束の胸元に、深紅の花が咲いた。
 一瞬置いて、沖田の口からどっと鮮血がこぼれ落ちる。
 敵将の顔に、勝利の色はなかった。
 そこにあったのは、ただ圧倒的な沈黙と、神への礼のような、深い黙祷。
 沖田は、ゆっくりと足元を見下ろす。
 突き刺さった槍、その柄の先にある手、そして……自らの胸に滲む鮮血。
 痛みは、なかった。
 ただ、身体の奥が、遠ざかってゆく。
 その奥で――
「静……」という聲が、もう一度、確かに聞こえた気がした。
 そして、彼は倒れなかった。
 剣を握ったまま、まだ前を向いていた。