名もなき剣に、雪が降る

第二十一話「鬼神の剖裂」

 なぜだろう。
 その夜は、風が吹かなかった。
 山々に囲まれた谷間の空は、黒曜石を溶かしたような漆黒に沈み、どこか不吉な静けさを纏っていた。枝を震わせる気配もなく、空気は不気味に澱んでいた。まるで、何かが訪れるのを待っているかのようだった。
 それは、沖田静が斬り込んだ夜である。
    ※
 敵軍は油断していたわけではなかった。
 斥候の報告で“白装束の剣士”が現れたことは、すぐさま本陣に知れ渡っていた。だが、信じていなかったのだ。たった一人で戦局を覆すなど、常識的にありえないと。
 常識は、沖田静を前にしては砕けるものだった。
 敵軍の側面を突いた沖田は、闇夜にまぎれ、獣のように駆け、剣を振るい、突き、斬り裂いた。
 最初に斬られた敵兵の首が、暗い草むらに沈んだとき、その場にいた者たちはようやく“それ”がただの剣士ではないことを理解した。
 白装束の影が、風のように動いた。
 誰も叫ばなかった。声すら出なかった。斬られた者は息の根が止まるまで、自分がやられたことにすら気づかない。
「っ、まて……囲め、囲めッ!」
 誰かが叫んだ。だが遅い。
 沖田の足取りは、踊るようだった。踏み込みも、斬撃も、跳躍も、異様なまでに静かで、そして正確だった。斬るために生まれた肢体。戦場でのみ呼吸を許された鬼神。
 敵軍の輪は、瞬く間に崩れた。
 斬って、踏み砕いて、蹴り払って、倒した。
 返り血で染まった白装束が、月の光を受けて煌々と輝いた。濡れたように濃く、そしてなによりも恐ろしかった。
 それは、もはや“人間”の形をしていても、“人間”ではなかった。
(……やっぱり、いるんだ……化け物が……)
 敵の一人がそう呟いた瞬間、その胸元に剣が届いていた。断末魔はなかった。肺ごと貫かれたからだ。
 沖田は、喘がなかった。叫ばなかった。無言のまま斬り続けた。
 斬り、斬り、斬り……。
 それは儀式のようでもあり、呪詛のようでもあった。
 息を吐く音すらなかった。
 沖田静は、もう何本目かの刀を手にしていた。
 最初に携えた軍の支給刀は、すでに刃こぼれし、鍔元から割れていた。血脂と肉片がこびりつき、鞘にすら戻せぬほどだった。
 彼はそれを捨てた。
 振り返りもせず、落ちた刃を投げ捨て、足元に転がる亡骸の武器を拾い上げる。
 敵の太刀、味方の槍、折れかけた脇差。
 手に馴染まなければそのまま地に置く。自分の動きに遅れが出るものは選ばない。
 戦場の音は、もう剣戟の音ではなかった。
 それは、獣の咆哮でも、兵の怒声でも、断末魔でもない。
 ただ、土と鉄がこすれる音だった。
 それだけが、あの白装束の剣士の「進撃」を知らせる印だった。
 四十。
 その数は、誰が数えたわけでもない。
 ただ、戦場の残骸の中に「そこにいた者が、確かに減っていく」だけだった。
「白が来た。白が──」
 誰かがそう言った瞬間、また一つ影が地に沈む。
「逃げろ、もう無理だ!」
 そう叫んだ兵もいた。
 だが、逃げようとした背中に、迷いなく刃が突き立った。
 沖田の目は、すでに人のそれではなかった。
 焦点の合わぬ虚ろな目。
 だがその奥には、燃えるようなものがあった。
 怒りでもない。
 悲しみでもない。
 それは、絶望の奥にある「諦念」に近かった。
「ここで終わると、もう、分かっている」──その理解が、逆に沖田を突き動かしていた。
「終わりの場所」へ向かう、その覚悟。
 誰もが予感していたこと。
 それでも、人々は叫んだ。
「戻ってこい! 静! お前は、まだ!」
「沖田さん! 待ってください、あんたは……!」
 叫び声が届かぬ丘の下で、沖田は振り返らない。
 ただ黙って、もう一振り、また一振りと、剣を振るう。
 敵将は、震えていた。
 武者震いだった。
 あの剣士が、人を斬るたびに、何かを削っているのがわかった。
 それは「人としての何か」だった。
 このまま斬り続ければ、きっと彼は戻ってこられない。
 そのことを、敵将である自分が、一番理解してしまっている。
(……戻れぬ道を、歩いている)
 そう感じたとき、敵将の唇から、声にならない祈りが漏れた。
「……せめて、終わらせてやる」
 それは、敵としての誓いではなく──人間としての決意だった。