名もなき剣に、雪が降る

第二十話「戻らぬ者の背に、雪が降る」

 その瞬間、誰もが理解した。
 もう、あの背中は還ってこないかもしれない、と。
 呻くような風が丘の上をかすめた。焼け焦げた松の香が微かに漂い、血と泥が混じる土の匂いと混ざり合って、どこか現実味のない空気が、戦場の空を包んでいた。
 沖田静の白装束は、もうかつてのように凛とした純白ではなかった。剣戟による破れや焦げがあり、風に舞うたび、ところどころが赤黒く染まっていた。にもかかわらず、彼の歩みは静かだった。凪のように、恐ろしいまでに穏やかだった。
「静……」
 誰かの声が震えていた。矢野のものかもしれなかったし、別の誰かのものかもしれなかった。ただ、その呼びかけを沖田は振り返らなかった。
 視線の先には、視界いっぱいに広がる敵軍――七十八の兵。密集し、布陣し、今まさに包囲を固めつつある敵兵たちが、無意識にほんの一歩、沖田から退いたようにも見えた。
 彼らは気づいていなかった。静が、戦場に立っていることに。
 否。彼らは探していた。彼の姿を。
「白装束を潰せ」という作戦のもと、何より優先すべき標的として名を挙げられた白の剣士――沖田静。
 彼らは、そこに立つ返り血にまみれ、煤に汚れた静を、ただの兵のひとりと思い、見逃した。
 そしてその錯誤の数秒間こそが、地獄への門を開け放つ猶予だった。
 ひとつ、深く息を吐く。
 その刹那、静の姿が風に紛れ、消えた。
「ッ!?」
 気づいた時には、既に敵兵の首が跳ね上がっていた。
 鋭い金属音が連なり、悲鳴が上がるよりも早く、三、四、五――視界が血飛沫で染まる。
 静は迷わなかった。剣を横に払うたび、肉が裂け、骨が折れ、声にならぬ絶命の痙攣が地面に転がった。
 それは、まるで“舞”のようだった。
 ひと振りの剣が描く軌跡に、無駄な力はなかった。止めるでも、押し返すでもなく、ただ“流す”ように、命を断ち切る。
 斬るのではない。
 ただ、命を“零す”。
 敵兵の一人が恐怖に足を止め、反射的に槍を振るう。
 しかし、すでにそこには静の姿はなく、気づけば背後を取られていた。刃が背筋を裂き、喉元を貫いた。
 静の瞳には、もはや人間としての逡巡がなかった。
 慈悲ではない。狂気でもない。
 それは、“確信”だった。
 ここにいる七十八の兵を、自分ひとりで断たねばならぬ――その覚悟が、既に心身に染み渡っていた。
 彼の動きに、迷いはなかった。
 ひと太刀ごとに、死が積み重なる。だがそこに、過去のような“激情”はなかった。
 ただ冷たく、淡々と、機械のように剣が命を削る。
 敵軍がようやく静の正体に気づき、陣形を組みなおす頃には、既に十七が倒れていた。
「白装束だ……!あれが、“白の剣士”……!」
 叫びがあがる。だが、それは鼓舞ではなかった。
 恐怖がにじむ、震えた報せだった。
 最前列の兵が退いた。
 その背を追って、後列の兵が動いた。
 しかし、静は一切それを逃さなかった。
 右手で剣を斬り下ろし、瞬時に左手で槍を奪い取り、くるりと回転しながら腹部を突く。
 一人が倒れる。
 血が大地に浸み、後方の者が足を滑らせる。
 静は、その隙すら見逃さなかった。
 地を蹴る。
 膝を使い、滑るように進み出ると、斜め上から斬りつけられた剣を、上体を逸らして回避。
 そのまま懐に潜り込み、胴を一閃。
 斬ったのではない。
 “納めた”。
 剣の軌跡が、敵兵の命を“しまい込む”ように吸い取っていく。
「人間じゃねえ……」
 誰かが呻いた。
「なんだあれは……化け物だ……」
 もう、誰も前へ出ようとしなかった。
 士気は崩れ、足は震え、言葉は途切れがちになる。
 だが、静の足は止まらなかった。
 その表情に、焦りも怒りもなかった。
 ただ一点――“沈黙の怒り”だけが、氷のように燃えていた。
 ――守れなかった者たち。
 ――届かなかった声。
 ――信じ、背を預けたはずの者の裏切り。
 そのすべてを、静は背負っていた。
 戦場の向こうに、いまだ踏ん張る味方たちの姿があった。
 あの丘の下、泥にまみれ、呻き声をあげている仲間たちの姿が、遠く見えていた。
 矢野。
 今村。
 源田。
 篠田。
 そして、早坂、水嶋。――佐々木。
 その名を、彼は一人ひとり思い浮かべながら、歩みを進めていた。
「――っ……!」
 誰かが、堪えきれず声を上げた。
 背を見送ることしかできないその無力さに、拳を握る者がいた。
 膝をついて叫ぶ者もいた。
 その声を背に、静は風のように沼地を蹴った。
 それは、まるで“遺影”だった。
 生ける者の姿ではなく、戦場に刻まれし幻のような白。
 戦場を駆け巡る足音は、誰にも届かぬ祈りのようだった。
 このとき、誰もが知っていた。
 あの背中は、もう戻らない。