名もなき剣に、雪が降る

第十九話「囁くは、死を数える風」

 ざわり、と。
 空気の層が、別の相に変わった気がした。
 草の匂いを孕んでいた風から、血と火薬の臭いが立ち昇る。
 最初に気づいたのは、源田だった。弓の手をわずかに緩めて、細く目を細める。
「……囲まれたな」
 誰かが呟いた言葉が、奇妙に遠く聞こえた。
 隊は、すでに全方位からの包囲を受けていた。
 高地の小道、森の切れ間、足元の窪地に至るまで、すべてが敵の射程にある。
 伝令を走らせた直後、敵が伝令の首を携え現れたとき、今村の心には“判断の遅れ”という痛みが走ったが、それすらも許されぬ時間だった。
「構えろ!」
 今村の怒号が空気を割る。
 篠田が腰を低くし、槍を左右に滑らせる。早坂は弓矢を構え、指先の震えを制御するように唇を噛んだ。矢野は背を丸め、前方の斜面を見据える。
「……静は、まだ戻らない」
 誰ともなくそう言った。
 静――沖田静。
 隊の希望であり、神話であり、そして、まだ戻らぬ剣だった。
     ※
 その瞬間、風が変わった。
 耳鳴りのような沈黙が、鼓膜を打ち破るように破られる。
 最初の一撃は、矢だった。
 森の奥から放たれた矢が、今村の頬を掠めて、後ろの木に突き刺さった。
「くるぞ!」
 怒号とともに、地鳴りが始まる。
 兵が走る音、盾のぶつかる音、武器が鳴る音。
 敵が雪崩れ込むように姿を現した。
 百――それ以上。
「位置を取れ!」
 今村の号令に従い、篠田と源田が左右に開く。矢野は後衛に回り、早坂と水嶋が中央を支える。
 だが、すでに陣形は整ってはいなかった。
 敵の数が、想定を超えていた。多すぎた。
「ちくしょう……これは潰すつもりだ、最初から!」
 早坂が叫び、弓を引く。
 轟音とともに、一人、二人と敵が崩れる。
 だが、すぐに次の波が押し寄せる。
 海のように、途切れず、怯まず。
「水嶋、下がれ!」
 矢野が叫んだが、水嶋は踏みとどまった。
 弓を捨て、腰の刃を抜いて前に出る。
「後衛がやられる!」
 叫びながら、真正面から斬り結ぶ。
 が、敵兵三人に取り囲まれ、刃は弾かれ、腹に突き立てられた槍が、水嶋の身体を折った。
「……っ、うそ、だろ……」
 誰かが呟く。
 水嶋の身体は、音もなく、地に落ちた。
     ※
 続いて、早坂が倒れた。
 矢が尽き、懐から刀を抜いたその瞬間、後方から回り込んだ敵兵の刃が、背中を裂いた。
 よろめきながらも振り返り、敵兵の首筋を斬るが、今度は腹に槍。
 鮮血が、地面に放物線を描く。
「はや……さかっ!」
 矢野の叫びが木霊する。
 だが、そこに時間は与えられない。
 敵の陣形はすでにこちらを囲み、数の差は歴然。
「源田! 弓、もうないか!」
「あと一本……だが、風が……」
 風向きが変わっていた。矢は逸れ、狙いは外れ、希望は遠ざかる。
 今村が叫ぶ。
「崩すな! あと少し、静が――」
 言いかけた言葉が、槍の柄に潰された。
 横から突き出された槍が、今村の脇腹をかすめる。
 今村は呻きながら敵兵を斬るが、そのまま片膝をついた。
「くそ、……くそっ」
 誰もが限界だった。
     ※
 篠田の腕が血に染まる。源田の足が矢に貫かれる。
 敵兵は、兵というより、ただの暴風のようだった。
 矢野も、すでに左足を打ち抜かれていた。
 立ち上がろうとしても、踏み込めない。
 あばらが折れていた。呼吸のたびに肺が悲鳴を上げる。
 それでも、矢野は叫んだ。
「静……っ! 無事か……ッ!?」
 どこにいる。
 もう、間に合わないのか。
 だが、その瞬間だった。
     ※
 音が、変わった。
 押し寄せる敵兵の奥で、一人が斬り伏せられる。
 続けて、また一人。
 白。
 風を裂くような、白。
 沖田静だった。
「……遅れて、すみません」
 息を切らせもせず、静は言った。
 足元には、倒れた敵兵の影。
 背後に揺れるのは、赤く染まった夕暮れの陽ではない。
 それは、剣の返り血。
「静……!」
 矢野が名を呼ぶ。
 が、静はそれに応えず、ただ、味方たちの亡骸を見つめた。
 水嶋。
 早坂。
 その名を、目でなぞる。
 そして、小さく目を伏せた。
 誰にも届かぬ、小さな声で、何かを告げた。
 それは、祈りだったのかもしれない。
 あるいは、ただの――別れだったのかもしれない。
 次の瞬間、静は、剣を抜いた。
「僕が行きます」
 そう言って、敵軍のただ中へ。
 彼の背中には、どこか安心感があった。
 戻ってくる、そう思える何かがあった。
 だがその日だけは、違った。
 全員が、それを“最期”だと悟った。
「……静!」
 口から血を迸らせながら矢野が叫ぶ。
 だが静は、振り返らなかった。
 丘の下。
 七十八の敵兵。
 その中心へと、白き鬼神が、駆けていった。