第十八話「囁かれた標的」
夜が明けきらぬ時刻、空にはまだ闇の名残があり、墨を流したような雲が東の空を覆っていた。兵たちは沈黙のなか、火の気の残る鍋の脇に集まっていた。かすかに湯気が立ちのぼるだけの、静かな幕舎の朝。
佐々木の死は、隊にとってあまりに重かった。味方だと思っていた佐々木はいつからか敵軍の間者としてこちらの隊で過ごしていた。――いや、もしかしたら最初から敵軍のスパイだったのかもしれない。
いずれにせよ、味方だと信じていた者から襲撃されたという事実は、理屈では消化できても、感情のほうが後を引く。信頼していた者の裏切りは、信頼そのものを腐らせる。静はそれをよく知っていた。
「……敵軍が、動き始めてる、今村さん! 静が狙われている!」
矢野の言葉に、誰かが息を呑んだ。
焚き火の奥、夜明けの冷気のなかに現れたのは、副隊長補佐の今村だった。灰色の軍衣にしっとりと夜露を含んだ彼の髪が、少しだけ白く見えたのは気のせいではなかった。
「佐々木の遺言……いや、口走った最期の言葉が確かならば、敵軍は“沖田静”を最優先で潰す計画を進めている」
名が呼ばれても、静は動かなかった。
「“白装束がいれば勝てない”。それが、あいつらの結論なんだとよ」
あの場にいなかった兵たちはざわめいた。いや、声を上げたわけではない。肩がわずかに揺れ、息が荒くなり、目が彷徨った。
「このままじゃ、静が危ない……! 援軍を」
矢野の声は、地を踏むような焦りを含んでいた。迷いも、怒りも、その奥にある“どうか、守りたい”という叫びも。
今村はすぐに手配した。伝令兵を呼び寄せ、作戦本部へと走らせる。
「静を最優先で狙っていると伝えろ! 行軍経路も変更が必要になる! 急げ!」
その兵士は無言でうなずくと、地を蹴った。東の空がかすかに白み始めたのを背に、彼は走っていった。
だが、それは、ほんの数分前の話でしかない。
※
次に見たのは、その兵の“首”だった。
斜面の向こう、木々のあいだから不意に現れた敵兵のひとりが、片手に掴んでいたのは、それだった。首筋から血を垂らし、まだ表情の凍りついたままの顔。
「っ……く、そ、あいつら!」
源田が叫び、早坂が矢を番えようとしたが、もはや遅かった。
四方から、土を踏み鳴らす音が押し寄せる。木立の奥、霧のなかから浮かび上がる影。十、二十、三十……数えきれないほどの兵が、静かに包囲を始めていた。
敵将の戦略は的確だった。伝令を断ち、状況把握を封じたうえで、一点突破を図る。その“一点”が沖田静であることを、彼らは疑っていなかった。
まるで、白装束だけがこの戦場の要だとでもいうように。
「下がれ、全員! 布陣を整え――!」
今村が叫ぶと同時に、矢野は咄嗟に横を見た。
――静が、いない。
白の姿が、いつのまにか、どこにもなかった。
※
それは、沖田静が自ら選んだ判断だった。
佐々木を斬ったその瞬間から、静の表情は氷のように固くなった。
「味方のなかに敵がいた」という衝撃が、彼の信頼を削いだのではない。
「沖田静の傍にいれば安全だ」とされていたが、状況は移り変わっていた。
「沖田静が狙われている」この状況下においては、「沖田静の傍にいる」ことはむしろ命の危険と隣り合わせだということだった。
(……僕が、ゆるんでいた)
たとえ味方に紛れていたとはいえ、間者の気配を察知できなかった。自分に情けがあったとすれば、それは斬られたも同然。剣士として、剣の先に迷いがあってはならない。
だから静は、距離をとった。
あの人たちを危険に晒したくはない。
来るなら、来い。
俺はここだ。
「ここにいる――!」
沖田は丘のその先、小山のてっぺんに立った。
白装束は目立つ。囮になるにはうってつけなのだ。
敵軍は山の上に立つ、無防備な白装束を目掛けて次々と駆け出した。
静は、意図して本隊から離れた。
それを察していた者は、矢野だけだった。
※
敵襲は本隊にも押し寄せた。
白装束の姿が見えないまま、戦況は急転する。四方から押し寄せる敵兵に、本隊は散り散りになりながら、必死の抵抗を続けた。
だが、敵は知っていた。“白”がいない今こそが好機であると。
今村が陣形の再構築を命じるも、その声がかき消されるほどの喧騒のなか、水嶋が肩口を斬られて倒れた。彼の得意とする斥候術も、乱戦では活かせなかった。
夜が明けきらぬ時刻、空にはまだ闇の名残があり、墨を流したような雲が東の空を覆っていた。兵たちは沈黙のなか、火の気の残る鍋の脇に集まっていた。かすかに湯気が立ちのぼるだけの、静かな幕舎の朝。
佐々木の死は、隊にとってあまりに重かった。味方だと思っていた佐々木はいつからか敵軍の間者としてこちらの隊で過ごしていた。――いや、もしかしたら最初から敵軍のスパイだったのかもしれない。
いずれにせよ、味方だと信じていた者から襲撃されたという事実は、理屈では消化できても、感情のほうが後を引く。信頼していた者の裏切りは、信頼そのものを腐らせる。静はそれをよく知っていた。
「……敵軍が、動き始めてる、今村さん! 静が狙われている!」
矢野の言葉に、誰かが息を呑んだ。
焚き火の奥、夜明けの冷気のなかに現れたのは、副隊長補佐の今村だった。灰色の軍衣にしっとりと夜露を含んだ彼の髪が、少しだけ白く見えたのは気のせいではなかった。
「佐々木の遺言……いや、口走った最期の言葉が確かならば、敵軍は“沖田静”を最優先で潰す計画を進めている」
名が呼ばれても、静は動かなかった。
「“白装束がいれば勝てない”。それが、あいつらの結論なんだとよ」
あの場にいなかった兵たちはざわめいた。いや、声を上げたわけではない。肩がわずかに揺れ、息が荒くなり、目が彷徨った。
「このままじゃ、静が危ない……! 援軍を」
矢野の声は、地を踏むような焦りを含んでいた。迷いも、怒りも、その奥にある“どうか、守りたい”という叫びも。
今村はすぐに手配した。伝令兵を呼び寄せ、作戦本部へと走らせる。
「静を最優先で狙っていると伝えろ! 行軍経路も変更が必要になる! 急げ!」
その兵士は無言でうなずくと、地を蹴った。東の空がかすかに白み始めたのを背に、彼は走っていった。
だが、それは、ほんの数分前の話でしかない。
※
次に見たのは、その兵の“首”だった。
斜面の向こう、木々のあいだから不意に現れた敵兵のひとりが、片手に掴んでいたのは、それだった。首筋から血を垂らし、まだ表情の凍りついたままの顔。
「っ……く、そ、あいつら!」
源田が叫び、早坂が矢を番えようとしたが、もはや遅かった。
四方から、土を踏み鳴らす音が押し寄せる。木立の奥、霧のなかから浮かび上がる影。十、二十、三十……数えきれないほどの兵が、静かに包囲を始めていた。
敵将の戦略は的確だった。伝令を断ち、状況把握を封じたうえで、一点突破を図る。その“一点”が沖田静であることを、彼らは疑っていなかった。
まるで、白装束だけがこの戦場の要だとでもいうように。
「下がれ、全員! 布陣を整え――!」
今村が叫ぶと同時に、矢野は咄嗟に横を見た。
――静が、いない。
白の姿が、いつのまにか、どこにもなかった。
※
それは、沖田静が自ら選んだ判断だった。
佐々木を斬ったその瞬間から、静の表情は氷のように固くなった。
「味方のなかに敵がいた」という衝撃が、彼の信頼を削いだのではない。
「沖田静の傍にいれば安全だ」とされていたが、状況は移り変わっていた。
「沖田静が狙われている」この状況下においては、「沖田静の傍にいる」ことはむしろ命の危険と隣り合わせだということだった。
(……僕が、ゆるんでいた)
たとえ味方に紛れていたとはいえ、間者の気配を察知できなかった。自分に情けがあったとすれば、それは斬られたも同然。剣士として、剣の先に迷いがあってはならない。
だから静は、距離をとった。
あの人たちを危険に晒したくはない。
来るなら、来い。
俺はここだ。
「ここにいる――!」
沖田は丘のその先、小山のてっぺんに立った。
白装束は目立つ。囮になるにはうってつけなのだ。
敵軍は山の上に立つ、無防備な白装束を目掛けて次々と駆け出した。
静は、意図して本隊から離れた。
それを察していた者は、矢野だけだった。
※
敵襲は本隊にも押し寄せた。
白装束の姿が見えないまま、戦況は急転する。四方から押し寄せる敵兵に、本隊は散り散りになりながら、必死の抵抗を続けた。
だが、敵は知っていた。“白”がいない今こそが好機であると。
今村が陣形の再構築を命じるも、その声がかき消されるほどの喧騒のなか、水嶋が肩口を斬られて倒れた。彼の得意とする斥候術も、乱戦では活かせなかった。



