名もなき剣に、雪が降る

第十七話「信じる者を、斬る覚悟」

 深い霧が山峡を包み、木々の葉はまだ露に艶めいていた。
 だが、朝の光を含んだ白はどこか重く、沈黙がすべてを覆い尽くしているようだった。
 そんな朝であるにもかかわらず、静の心には――重苦しい沈黙よりも深い虚無があった。
 ――味方に扮した間者から命を狙われたのは、自らの不注意のせいだった。
 信じたがゆえに、剣を無防備に晒した結果だった。

 静は、その思いを胸に秘めながら剣を手入れしていた。
 ざらりと響く研ぎ石の音が、虚空に木霊していた。
     ※
 昼下がり、森のざわめきが急速に薄れていったときだった。
 それに気づいたのは、沖田だった。
 大気の密度が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
 それは気配の狂いとして、剣先の神経を張らせる。
 その気配は次の瞬間、刃と化した。
     ※
 一本の矢が沖田の背に向かって放たれる。
 その瞬間、沖田は身を翻してその矢を断ち切った。
 すぐさま、矢の飛んできた方向を確かめる。
 ──佐々木だった。
 仲間の中で最も温かな笑みを持つその顔が、静の前に現れた。

「うおおおおあああ!」
 佐々木は半ばやけになったように、沖田に向かって剣を振りかざす。
 しかし静は一拍遅れた剣をかわし、刃を合わせずとも、その意思を跳ね返した。
 佐々木の肩から、血が静かに滴り始めた。
 彼が持っていた小柄な剣は宙を切り、地面に音もなく落ちた。
 静は静かに彼を押し倒し、その身体を押し込むようにして地面へと縫い付けた。
     ※
 その瞬間、仲間たちが駆け込んできた。
 火袋を置き忘れ、槍を素手で握り、天幕から真っ先に飛び出した顔は青ざめていた。
 何があったのか、語られずとも、みな把握した。
 先日から隊内をかき乱していた間者。――裏切り者の正体は佐々木だったのだ。
「……佐々木」
「なんで、お前が……」
 その声が、小さく割れて地に落ちた。
 誰もが、信じられない想いに震えていた。
     ※
 静は剣の柄を穏やかに握り、佐々木の首筋へ冷たい刃先を向けた。
 その眼には怒りも憐憫もなく、ただひたすらに——意思だけが透き通っていた。
 一方で、佐々木の表情には——涙と笑みが入り混じっていた。
 その笑いは、皮肉でもなく嘲りでもなく、むしろ泣き声に似ていた。
「この人殺しが!」
 これまで聞いたこともないような佐々木の罵声は、鮮明に響いた。
 彼の心の内には、深い後悔と、己が踏み越えた道への絶望が燻っていた。
 重苦しい沈黙のなか、佐々木は口の端を歪めて笑った。
 その見開かれた目から大粒の涙を流しながら。
 「最後に教えてやるよ……お前たちの敵軍の中ではなぁ、“沖田静を潰す”計画が動いている」
 その言葉は血の匂いを伴って、静の胸に染み込んだ。
     *
 その瞬間だった。
 佐々木の身体が激しく震えた。
「うおああああ」
 佐々木は声を荒らげながら、沖田の制止から逃れようと身をよじった。
 それは彼なりの抗議だったのかもしれない――
「沖田さん、俺を殺せ、迷いなく」と。
 身体をひねらせ、地を蹴り、最後の抵抗を示すかのように暴れた。
 静は瞬時に動いた。
 刃先が空気を切ったその刹那、迷いはなかった。
 ──静かな、致命の一振りだった。
     ※
 剣が肉を裂き、血が淡く光った。
 佐々木は大きく息を吸ったまま、動かなくなった。
 その瞳に、怒りも哀しみもない。
 ただ、切ないほど澄んだ終幕の色だけだった。
 仲間たちは無言のまま、立ち尽くしていた。
 言葉はどこにもなかった。
 ただ、呼吸だけが不規則に乱れていた。
     ※
 静はただ一言──呟いた。
「……これで良かったのだろうか」
 その言葉は重く、澄んだ痛みをもって胸に落ちた。
 剣を握る手には、血の温度がまだ残っていた。
 それを触れるたびに、彼は自分の過ちと決意を確かめた。
     ※
 今村がそっと近づき、声を落とした。
「戻ろう……剣を鞘に」
 それは、呟きにも似た言葉だった。
 誰もが頷き、静はゆっくりと剣を納めた。
 夜が深く染まるなか、隊は歩き始めた。
 足音は、泥と血を踏む音すらも静かだった。