第十六話「崖っぷちの影、それでも剣は」
風の音が、遠ざかった――と思った瞬間、耳を切るように音が舞い戻った。
森の奥深くで、弦が張られ、矢が放たれる。その音が、一瞬で夜の気配を切り裂いた。
――敵の動きが、静寂を破る。
天幕にいた兵たちは、一斉に息を止めた。
この音は、ただの“罠”ではなかった。
人を狙う決意を持った“意図”だった。
※
「全員構えろ!」
今村の声が震えた。
号令は静かだったが、胸を揺らす音だった。
矢が飛んできた。
火桶を割り、薪を弾き、衣服を揺らした。
誰もが身構えた。その瞬間、第二の矢が届く。
「伏せろ!」
天幕の影から飛び出したのは、水嶋と早坂だった。
弓を構え、矢を放った。
だが、その狙いは――こちらにも、敵にも向けられていた。
小さな、鋭い“裏切りの声”。
静に向かって、矢が放たれた。
だが、それは静を刺さなかった。
地面に落ち、砂塵を巻き上げて砕けた。
矢は、避けられたのでも、外れたのでもなかった。
――誰も斬れない決意だけが残った。
※
「どういう…ことだ?」
矢野が怒声に近い声を出した。
「裏切りだ。間者のひとり…静を狙ったやつがいる」
今村は冷たく言った。
――この中に――間者がもう一人。
森の影が揺れた。
誰かが、火桶の隙間から消えた。
耳もとで、布が裂ける音。
矢野は身をひねり、剣を抜いた。
その視線の先で、細い影が消えていった。
※
「静、大丈夫か!」
矢野が飛び込むと、静は膝をついていた。
静は答えなかった。
ただ肩を押さえて、微かに震えていた。
「おまえ…!」
矢野は静の胸元の札袋を探った。それは――早坂さんの作った護符か。
無傷だった。
「傷はなく済んだ。敵意は…斬られるより、怯えだった。狙った者は、“斬らせなかった”。それが…裏切りの本質かもしれません」
静はぼんやりと剣を見た。
――自分の手を信じてくれた仲間が、同時に自分を狙ったこと。そして、自分を“守ろうとしてくれた”こと。
矛盾は、痛みよりも鋭かった。
※
その夜。
天幕の外に、雨が落ちはじめた。
細かく、冷たい雨が、夜の闇を洗うように降った。
だが、天幕の内は異様に静かだった。
誰も、言葉を交さない。
ただ、剣が一度も納められず、天幕の中央に立っていた。
乾いた衣の上に、赤いしずくが落ちていた。
その剣には、まだ誰の鼓動も映っていた。
※
翌朝。
動きがあった。
篠田が、目を充血させながら止まった。
「……あの人、夜中に天幕を出た」
「何の用だ?」
「わかりません。でも、剣を持って、雨の中を消えていきました」
誰かが呟いた。
「あいつは…誰かを探してたのか?」
――誰を。
静の姿は、そこになかった。
※
急行隊が組まれた。
矢野、水嶋、源田、早坂、佐々木。
五人が、夜の森を追う。
夜露が草を濡らし、霧は視界を奪う。
だが、彼らは知っていた。
誰が、何のために動いているのかを。
「探せ…できるだけ静に近づけ」
矢野の声が、闇を割るようだった。
※
森深く。
誰かが剣を握る呼吸と、雨の匂いが混じっていた。
枝が揺れる。足音が近づいた。
「静…俺たちだ」
返事はない。
そのとき、剣が浮かび、白装束が闇から現れた。
――そこには、血に濡れた静の姿だけがあった。
顔には泥と涙の跡。
目は伏せられ、刃を持つ手が、震えていた。
「どうして…」
矢野は剣を下ろしながら、静の横に膝をついた。
「俺たちを、裏切ったわけじゃないんだろ?」
静は答えなかった。
ただひとつ、呟いた。
「……僕に、名を呼んでください」
「……?」
矢野は言葉を失った。
「静…」
その名が、夜を震わせた。
静は肩を震わせて、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声に、静を探してきた五人は皆言葉を失った。
※
その夜、剣は鞘に納められた。
だが、名前は何度も呼ばれていた。
雨の滴が、名の響きを伴って、夜空に消えていった。
剣を持つ手が覚えているのは――怒りでも、痛みでもなく、呼ばれる温度だった。
風の音が、遠ざかった――と思った瞬間、耳を切るように音が舞い戻った。
森の奥深くで、弦が張られ、矢が放たれる。その音が、一瞬で夜の気配を切り裂いた。
――敵の動きが、静寂を破る。
天幕にいた兵たちは、一斉に息を止めた。
この音は、ただの“罠”ではなかった。
人を狙う決意を持った“意図”だった。
※
「全員構えろ!」
今村の声が震えた。
号令は静かだったが、胸を揺らす音だった。
矢が飛んできた。
火桶を割り、薪を弾き、衣服を揺らした。
誰もが身構えた。その瞬間、第二の矢が届く。
「伏せろ!」
天幕の影から飛び出したのは、水嶋と早坂だった。
弓を構え、矢を放った。
だが、その狙いは――こちらにも、敵にも向けられていた。
小さな、鋭い“裏切りの声”。
静に向かって、矢が放たれた。
だが、それは静を刺さなかった。
地面に落ち、砂塵を巻き上げて砕けた。
矢は、避けられたのでも、外れたのでもなかった。
――誰も斬れない決意だけが残った。
※
「どういう…ことだ?」
矢野が怒声に近い声を出した。
「裏切りだ。間者のひとり…静を狙ったやつがいる」
今村は冷たく言った。
――この中に――間者がもう一人。
森の影が揺れた。
誰かが、火桶の隙間から消えた。
耳もとで、布が裂ける音。
矢野は身をひねり、剣を抜いた。
その視線の先で、細い影が消えていった。
※
「静、大丈夫か!」
矢野が飛び込むと、静は膝をついていた。
静は答えなかった。
ただ肩を押さえて、微かに震えていた。
「おまえ…!」
矢野は静の胸元の札袋を探った。それは――早坂さんの作った護符か。
無傷だった。
「傷はなく済んだ。敵意は…斬られるより、怯えだった。狙った者は、“斬らせなかった”。それが…裏切りの本質かもしれません」
静はぼんやりと剣を見た。
――自分の手を信じてくれた仲間が、同時に自分を狙ったこと。そして、自分を“守ろうとしてくれた”こと。
矛盾は、痛みよりも鋭かった。
※
その夜。
天幕の外に、雨が落ちはじめた。
細かく、冷たい雨が、夜の闇を洗うように降った。
だが、天幕の内は異様に静かだった。
誰も、言葉を交さない。
ただ、剣が一度も納められず、天幕の中央に立っていた。
乾いた衣の上に、赤いしずくが落ちていた。
その剣には、まだ誰の鼓動も映っていた。
※
翌朝。
動きがあった。
篠田が、目を充血させながら止まった。
「……あの人、夜中に天幕を出た」
「何の用だ?」
「わかりません。でも、剣を持って、雨の中を消えていきました」
誰かが呟いた。
「あいつは…誰かを探してたのか?」
――誰を。
静の姿は、そこになかった。
※
急行隊が組まれた。
矢野、水嶋、源田、早坂、佐々木。
五人が、夜の森を追う。
夜露が草を濡らし、霧は視界を奪う。
だが、彼らは知っていた。
誰が、何のために動いているのかを。
「探せ…できるだけ静に近づけ」
矢野の声が、闇を割るようだった。
※
森深く。
誰かが剣を握る呼吸と、雨の匂いが混じっていた。
枝が揺れる。足音が近づいた。
「静…俺たちだ」
返事はない。
そのとき、剣が浮かび、白装束が闇から現れた。
――そこには、血に濡れた静の姿だけがあった。
顔には泥と涙の跡。
目は伏せられ、刃を持つ手が、震えていた。
「どうして…」
矢野は剣を下ろしながら、静の横に膝をついた。
「俺たちを、裏切ったわけじゃないんだろ?」
静は答えなかった。
ただひとつ、呟いた。
「……僕に、名を呼んでください」
「……?」
矢野は言葉を失った。
「静…」
その名が、夜を震わせた。
静は肩を震わせて、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声に、静を探してきた五人は皆言葉を失った。
※
その夜、剣は鞘に納められた。
だが、名前は何度も呼ばれていた。
雨の滴が、名の響きを伴って、夜空に消えていった。
剣を持つ手が覚えているのは――怒りでも、痛みでもなく、呼ばれる温度だった。



