名もなき剣に、雪が降る

第十五話「沈黙の予感、夜を包む刃」

 霧が晴れ、草が芽吹き、山間の空気は日ごとに軽くなる。
 春は、この地にもたらされていた。
 だがその季節が、決して穏やかばかりでないことを、彼らは知っていた。
     ※
 補給路を断った作戦は、軍本隊から高く評価された。
 静を含む小隊の働きが、戦局の一角を確かに動かしたと、報告書にも明記された。
「おまえら、英雄だぞ」
 そう笑って言ったのは今村だったが、誰も「そうだ」とは言わなかった。
 源田はぼりぼりと頭をかき、篠田は「いやいや、たまたまですよ」と苦笑し、矢野は黙って剣の柄に指を添えた。
 静だけが、言葉もなく微笑んでいた。
 その微笑は、どこか“遠く”を見ているようだった。
     ※
 その夜。
 静はひとり、天幕を出ていた。
 風が枝葉を揺らす音だけが辺りに漂う。
 火も焚かれていない。月明かりも乏しい夜だった。
 静の手には、鞘に収めた剣。
 ただ、それだけ。
 彼は、草の上に膝をつくと、地面に額をつけるように、ゆっくりと頭を垂れた。
 しばらくそうしていた。
 やがて、呟くように声がこぼれる。
「……これが、終わる日が来たとして」
「僕は、どうすればいいんでしょう」
 その問いに、答える者はいなかった。
     ※
 次の日の朝、矢野が静に尋ねた。
「昨日、夜どこにいた?」
 静は少し驚いたように顔をあげる。
「気配、わかりましたか」
「おまえの気配は、変な消え方するからな。……夜、眠れなかった?」
「いえ、ただ……月を見ていました」
「ほんとかよ」
 矢野が眉をひそめる。
「最近、疲れてるように見える」
 静は微笑んだ。
「矢野さんは、よく見ていらっしゃる」
「それ、誉めてないからな」
 矢野は視線を外した。
 だが、そのまま、声を潜めて続ける。
「……もし、つらかったら、ちゃんと言え。全部ひとりで背負うな」
「……はい」
 その返事が、あまりにも静かだったので、矢野は胸の奥に言いようのないざらつきを覚えた。
     ※
 その日から、静は隊の訓練に加わらなくなった。
 表向きは休養という理由だったが、実際には、何かが違っていた。
 動けないのではない。
 むしろ、異様に整いすぎていた。
 矢野は見ていた。
 朝の手入れ、歩く姿、剣の扱い、言葉遣い……
 すべてが、ある種の“型”に収まりすぎていた。
「……戻りかけてるな」
 矢野はひとり、そう呟いた。
 “白装束の鬼神”と呼ばれていた頃の、あの氷のような静に。
 人の心が、“鎧のなかに引っ込む”ように。
     *
 その数日後。
 斥候のひとりが、前線の動きを報告に戻ってきた。
「……敵の動きが変です。いままで補給してた道、わざと見せかけで使ってます」
「囮か」
「たぶん、次は正面から来ると思います」
 その報告を聞いた瞬間、静が顔を上げた。
「では、僕が行きます」
「一人でか」
 矢野が声を荒げた。
「偵察じゃない、囮だぞ。あえて捕まる可能性すらある。おまえが行くべきじゃない」
 静は穏やかに、しかし確かに言った。
「僕の足跡なら、敵は騙されます」
 その瞬間、隊内の空気が変わった。
 ――確かに、それは“真実”だった。
 静がそこにいるだけで、敵の陣形は乱れ、戦術は崩れる。
「だとしても……!」
 矢野が前に出たが、その腕を、源田がそっと掴んだ。
「矢野さん」
「……っ」
「静さんを信じましょう。俺たちも、信じてもらったんですから」
 矢野は、悔しそうに唇を噛んだ。
 だが、やがて頷いた。
「……戻ってこいよ」
 静は、やわらかく笑った。
「必ず」
     ※
 偽の補給路に向かった静は、崖上の樹間に姿を潜めた。
 数刻後、敵兵が現れた。
 足音、息遣い、装備――
 斥候部隊だ。偵察ではなく、“追跡と討伐”を目的とした配置。
 静は、剣を抜いた。
 その瞬間、空気が変わった。
 剣が鞘から抜けた音すらないのに、すべての草が、風を避けるようにそよいだ。
「……誰かいる!」
 敵の声。
「出てこい! 知ってるぞ、“白装束の”――」
 その声が終わる前に、静は地から跳ねた。
 剣が閃く。
 声を上げる暇もなく、ひとり、またひとりと“封じられていく”。
 誰も死ななかった。
 ただ、“動けなくなった”。
 戦いではなかった。
 ただ、舞のようだった。
 それでも静の目は、ひとつの色も浮かべていなかった。
 光も、影も、なかった。
 矢野の言葉が、その脳裏に浮かんだ。
 ――おまえ、あまり怒らないよな。
 ――殺しても、泣かない。
 ――なにを斬ってるんだ?
 静は、剣を収めながら、呟いた。
「……まだ、僕は“人”でいられるでしょうか」
 その声に、答えはなかった。
     ※
 日が暮れるころ、静は無傷で戻ってきた。
 敵部隊の動きは止まり、本隊もその隙に布陣を再調整した。
 だが、矢野は静の顔を見て、すぐに気づいた。
「……遠くに行ってたな」
 静は答えなかった。
 だが、ほんの一瞬、視線を落とした。
 その眼差しは――“迷っていた”。
     ※
 夜、火のまわりに小さな影が集まる。
 源田も、篠田も、今村も、いつものように雑談を交わす。
 その輪のなかに、静がいた。
 だが、矢野は見逃さなかった。
 笑うその目が、わずかに“遅れて”いた。
 まるで、その場の空気に、自分を“合わせている”ようだった。
 “自然にいる”のではなく、“ここにいようと努力している”ようだった。
 矢野の胸が、締めつけられた。
 ――もう少しで、手が届いたのに。
 ――また、“遠く”に行こうとしてる。
 矢野は心の中で、ただ祈った。
 どうか、まだ“名前”に応えてくれますように。