第十四話「声を重ねる日々に、雪は降らない」
名を呼ぶことが、誰かを救うことがある。
だが、名を呼ぶには、その者の存在を認めねばならない。
“人”として、そこに在ると、言葉にして肯わねばならない。
それはこの戦場で、ときに命より重いことだった。
※
事件の翌朝、新兵の青年――篠田は、自ら立っていた。
無言のまま、天幕を畳み、槍を手に、整列の列に加わった。
その背中は震えていたが、誰も笑わなかった。
ただ、誰からともなく、その傍に並んだ者がいた。
源田だった。
次いで、早坂、そして佐々木。
言葉なく、その隣に立ち、前を見た。
まるで、「おまえも、ここにいろ」と言うように。
矢野がそれを見ながら、ぽつりと呟いた。
「……変わったな、この部隊」
「ええ」
静もまた、火の前で槍を研ぎながら、言葉を重ねる。
「皆さん、名前を、呼んでくれるようになりました」
「そうだな」
「けれど、僕自身が……そのことに、甘えてしまいそうで」
矢野は顔を向ける。
「甘えていいんだ。そういう時期にきたってことだよ、静」
しばらくの沈黙。
そののち、静は小さく息を吐いた。
「……甘えて、いいんですね」
「いいさ。おまえの剣が、ずっと張ってたから、みんなも張ってたんだ。緩めても、いい」
火の音が、はぜた。
※
その夜、篠田が静に話しかけてきた。
「……あのとき、なぜ動けたんですか?」
唐突な問いだった。
静は剣を膝の上に置き、考えるようにまぶたを伏せた。
「動けない時の方が、多いんです。僕も」
「……え」
「でも……守るものが“ひとり”なら、迷いは減ります」
静の目は、天幕の布を越えて、外の闇を見つめていた。
「矛先が多ければ、人は迷う。敵が十人いれば、どこを斬るべきか、選べなくなる。でも、護りたい者が“そこ”にいるなら、矛先はひとつになる」
篠田は、言葉を失ったまま頷いた。
「でも、俺……あの敵兵を、止められませんでした」
「物理的には止められなかった。でも、声で止まってくれましたね?」
「……はい」
「それで十分です。あなたの声は届きました。声が、届いたんです」
その言葉は、深く静かで、あたたかかった。
篠田の肩が、かすかに震えた。
*
以後、篠田は静に付き従うようになった。
訓練でも配置でも、矢野と交替で隣に立つことが多くなった。
若い隊員たちのあいだでは、「静班」なる冗談が生まれたほどだ。
「沖田さんが真ん中にいれば、絶対死なないから」
「盾の外に出ても、静が飛んでくる」
「いやいや、静さんは瞬間移動するんだよ」
そんな冗談に、静がふっと微笑をこぼす場面も増えた。
最年少であるはずの沖田が、最も頼られ、最も静かに微笑む――
それが、この隊の、奇妙な重心だった。
*
その翌週、偵察任務が与えられた。
丘陵地帯を越えた先に、敵の新たな補給路があるという情報。
危険な任務ではあったが、小隊規模での行動に適している。
静と矢野、篠田、源田、早坂、そして今村の六人。
この組み合わせに、誰も異を唱えなかった。
出発の朝。
篠田が、握り飯をふたつ持って、静の天幕前に現れた。
「ほら。朝、抜くって言ったでしょ」
「ありがとうございます。でも、半分でいいですよ」
「俺も怖いんです。だから一緒に食べてくれないと、食えません」
静は少しだけ笑った。
「では、ありがたく」
ふたりは並んで飯を食べた。
空はまだ、灰色で、霧が立ち込めていた。
※
丘陵地帯の尾根で、静は風の音を読んでいた。
「こちらです」
迷いなく歩き、獣道のような隘路を抜けると――そこに、小さな木製の橋が架かっていた。
「橋だ」
「補給路、間違いありません」
今村が地図を開く。
「こことここを塞げば、敵の物資は遮断される。だが……」
「すでに気づかれているかもしれません」
矢野が呟いた。
その瞬間。
風が鳴った。
地の底から這い出すような唸り声とともに、矢が降る。
静が、すかさず篠田を押して地面に伏せさせる。
「矢野さん!」
「右側、潰す!」
二人は同時に走り出した。
木々の陰から現れたのは、十名の敵兵。
背には荷を背負い、剣を握ったまま、悲鳴のような声を上げる。
「補給隊か……!」
その声を聞いた瞬間、静の剣が走った。
風とともに、滑るように敵の間を抜け、誰も触れることなく、肩口を斬る。
致命傷ではない。
“動けなくする”だけの、剣だった。
「静!」
矢野の声。
敵の指揮官らしき者が、斜面の上で旗を掲げようとしていた。
この場所が見つかれば、本隊にすぐ報せが届く。
「行きます」
静がそのまま斜面を駆け上がった。
剣を振る音すらない。
ただ、一閃。
旗は、空を舞った。
*
日が沈みかける頃、任務は達成された。
補給路は寸断され、敵の足は止まった。
だが、矢野の肩からは血が流れていた。
矢が、左の肩口をかすめていた。
「見せてください」
沖田が手当てを申し出る。
矢野は「大丈夫、かすり傷だ」と首を振るが、すぐに顔をしかめる。
「俺が見ます!」
篠田が駆け寄る。
「言葉では強がっていても、顔に出ていますよ、矢野さん」
皆が笑った。
その笑いのなかで、静がようやく、力を抜いた。
※
天幕のなか、夜が深くなる。
静はうとうととしながら、ふと漏らす。
「……いいですね、皆さんの声」
「声?」
「名前を呼んでくれる。それが、僕を……ここに繋ぎとめてくれているようで」
矢野は、その横顔を見ながら、静かに言った。
「おまえの名前は、俺たちの“旗”みたいなもんだからな」
篠田が照れたように笑う。
「じゃあ、毎日呼びます。静さん、静さん、静さーん!」
「やめてください、照れます」
皆が笑った。
その笑いのなかに、戦場とは思えない、穏やかな風が吹いていた。
名を呼ぶことが、誰かを救うことがある。
だが、名を呼ぶには、その者の存在を認めねばならない。
“人”として、そこに在ると、言葉にして肯わねばならない。
それはこの戦場で、ときに命より重いことだった。
※
事件の翌朝、新兵の青年――篠田は、自ら立っていた。
無言のまま、天幕を畳み、槍を手に、整列の列に加わった。
その背中は震えていたが、誰も笑わなかった。
ただ、誰からともなく、その傍に並んだ者がいた。
源田だった。
次いで、早坂、そして佐々木。
言葉なく、その隣に立ち、前を見た。
まるで、「おまえも、ここにいろ」と言うように。
矢野がそれを見ながら、ぽつりと呟いた。
「……変わったな、この部隊」
「ええ」
静もまた、火の前で槍を研ぎながら、言葉を重ねる。
「皆さん、名前を、呼んでくれるようになりました」
「そうだな」
「けれど、僕自身が……そのことに、甘えてしまいそうで」
矢野は顔を向ける。
「甘えていいんだ。そういう時期にきたってことだよ、静」
しばらくの沈黙。
そののち、静は小さく息を吐いた。
「……甘えて、いいんですね」
「いいさ。おまえの剣が、ずっと張ってたから、みんなも張ってたんだ。緩めても、いい」
火の音が、はぜた。
※
その夜、篠田が静に話しかけてきた。
「……あのとき、なぜ動けたんですか?」
唐突な問いだった。
静は剣を膝の上に置き、考えるようにまぶたを伏せた。
「動けない時の方が、多いんです。僕も」
「……え」
「でも……守るものが“ひとり”なら、迷いは減ります」
静の目は、天幕の布を越えて、外の闇を見つめていた。
「矛先が多ければ、人は迷う。敵が十人いれば、どこを斬るべきか、選べなくなる。でも、護りたい者が“そこ”にいるなら、矛先はひとつになる」
篠田は、言葉を失ったまま頷いた。
「でも、俺……あの敵兵を、止められませんでした」
「物理的には止められなかった。でも、声で止まってくれましたね?」
「……はい」
「それで十分です。あなたの声は届きました。声が、届いたんです」
その言葉は、深く静かで、あたたかかった。
篠田の肩が、かすかに震えた。
*
以後、篠田は静に付き従うようになった。
訓練でも配置でも、矢野と交替で隣に立つことが多くなった。
若い隊員たちのあいだでは、「静班」なる冗談が生まれたほどだ。
「沖田さんが真ん中にいれば、絶対死なないから」
「盾の外に出ても、静が飛んでくる」
「いやいや、静さんは瞬間移動するんだよ」
そんな冗談に、静がふっと微笑をこぼす場面も増えた。
最年少であるはずの沖田が、最も頼られ、最も静かに微笑む――
それが、この隊の、奇妙な重心だった。
*
その翌週、偵察任務が与えられた。
丘陵地帯を越えた先に、敵の新たな補給路があるという情報。
危険な任務ではあったが、小隊規模での行動に適している。
静と矢野、篠田、源田、早坂、そして今村の六人。
この組み合わせに、誰も異を唱えなかった。
出発の朝。
篠田が、握り飯をふたつ持って、静の天幕前に現れた。
「ほら。朝、抜くって言ったでしょ」
「ありがとうございます。でも、半分でいいですよ」
「俺も怖いんです。だから一緒に食べてくれないと、食えません」
静は少しだけ笑った。
「では、ありがたく」
ふたりは並んで飯を食べた。
空はまだ、灰色で、霧が立ち込めていた。
※
丘陵地帯の尾根で、静は風の音を読んでいた。
「こちらです」
迷いなく歩き、獣道のような隘路を抜けると――そこに、小さな木製の橋が架かっていた。
「橋だ」
「補給路、間違いありません」
今村が地図を開く。
「こことここを塞げば、敵の物資は遮断される。だが……」
「すでに気づかれているかもしれません」
矢野が呟いた。
その瞬間。
風が鳴った。
地の底から這い出すような唸り声とともに、矢が降る。
静が、すかさず篠田を押して地面に伏せさせる。
「矢野さん!」
「右側、潰す!」
二人は同時に走り出した。
木々の陰から現れたのは、十名の敵兵。
背には荷を背負い、剣を握ったまま、悲鳴のような声を上げる。
「補給隊か……!」
その声を聞いた瞬間、静の剣が走った。
風とともに、滑るように敵の間を抜け、誰も触れることなく、肩口を斬る。
致命傷ではない。
“動けなくする”だけの、剣だった。
「静!」
矢野の声。
敵の指揮官らしき者が、斜面の上で旗を掲げようとしていた。
この場所が見つかれば、本隊にすぐ報せが届く。
「行きます」
静がそのまま斜面を駆け上がった。
剣を振る音すらない。
ただ、一閃。
旗は、空を舞った。
*
日が沈みかける頃、任務は達成された。
補給路は寸断され、敵の足は止まった。
だが、矢野の肩からは血が流れていた。
矢が、左の肩口をかすめていた。
「見せてください」
沖田が手当てを申し出る。
矢野は「大丈夫、かすり傷だ」と首を振るが、すぐに顔をしかめる。
「俺が見ます!」
篠田が駆け寄る。
「言葉では強がっていても、顔に出ていますよ、矢野さん」
皆が笑った。
その笑いのなかで、静がようやく、力を抜いた。
※
天幕のなか、夜が深くなる。
静はうとうととしながら、ふと漏らす。
「……いいですね、皆さんの声」
「声?」
「名前を呼んでくれる。それが、僕を……ここに繋ぎとめてくれているようで」
矢野は、その横顔を見ながら、静かに言った。
「おまえの名前は、俺たちの“旗”みたいなもんだからな」
篠田が照れたように笑う。
「じゃあ、毎日呼びます。静さん、静さん、静さーん!」
「やめてください、照れます」
皆が笑った。
その笑いのなかに、戦場とは思えない、穏やかな風が吹いていた。



