名もなき剣に、雪が降る

第十三話「その名を呼ぶために、夜を越える」

 夜が終わった――と、人は簡単に言う。
 だが、戦の夜明けには、何かを“越えた者”と、“越えられなかった者”の区別がある。
 あの戦いのあと、静の剣が鞘に戻されてから、ほんの数時間。
 天幕の外では、霧が晴れきらぬ朝が訪れていた。
 だが、その霧のなかで、彼はまだ、呼吸を整えていた。
     *
「起きてるのか?」
 低く、静かな声だった。
 矢野だった。
 布の向こうで、静はゆるく瞬きをし、まだ熱の残る額を覆った。
 肩の傷口は、鈍く痛んでいた。肉が裂けていると、応急手当をしてくれた早坂は言っていた。
「眠っていたと思ってた」
 矢野の声に、静は、かすかに笑みをにじませた。
「夢を見ていたようです」
「どんな?」
「誰かの声がしていて……僕の名を呼んでいました」
「名前か……」
 矢野は、火桶に薪をくべながらつぶやいた。
「それだけで、戻ってこれるような気がするときがある。夜の底でも」
 静は黙って聞いていた。
 名を呼ばれる。それだけで、自分が“ここ”にいるのだと、信じられる瞬間がある――
 矢野のその言葉は、まるで祈りのようだった。
     ※
 その日、隊の指揮が一時的に隊長から、副長補佐の今村へ移された。
 静は安静を命じられていたが、夕刻、天幕の外へと出た。
 火の周りに兵が集まり、手に湯を持ち、煙を浴びていた。
 そのなかに、水嶋、源田、佐々木、早坂の姿があった。
 誰も最初は声をかけなかった。
 だが、源田がふと気づき、立ち上がる。
「静さん……!」
 その言葉をきっかけに、火のまわりに空気が動いた。
 誰かが席を空け、誰かが湯を手渡した。
 静は微笑しながら、それを受け取った。
「ありがとう。……あたたかいですね」
 声はかすれていたが、温度があった。
「……あたたかくしてなきゃ、また倒れますよ」
 早坂がぼそっと言った。
「そうだそうだ」
 佐々木が笑った。「なんなら湯たんぽ作るか?」
 静は笑った。
 その笑いに、兵たちは安心した。
 “鬼神”ではない、“人間”が、そこにいたからだった。
     *
 夜半、森がざわめいた。
 風が変わるのを、静が感じたのは、その直前だった。
「動きます」
 静がつぶやくと、矢野が顔を上げた。
「どうしてわかる?」
「音が……森の音が、呼んでいます」
 それは感覚だった。
 理屈ではない、何かが――ずれている。
 直後、火点しの兵が叫んだ。
「西、森の斜面、何かいる!」
 剣が、音を立てて抜かれた。
 弓兵が起き上がり、槍が振りかぶられ、天幕がばたばたと押しのけられる。
「全員、布陣を!」
 今村の号令が飛んだ。
 空気が緊迫する。
 だがそのとき、静が低く言った。
「来ていません。……まだ、“試している”だけです」
「試す?」
「こちらの出方を、探っています」
 矢野が呟いた。
「……間者か」
 その場にいた全員が、凍るように黙った。
 “間者”。
 戦場では最も忌まれる言葉。
 つまり――誰かが、この中に。
     *
 翌朝。
 誰よりも早く、静が立っていた。
 その姿は白く、凛としていて、血の痕も消えていた。
 剣を腰に戻し、矢野の方を向く。
「――ここに、あの人がいないのなら、それでいいのです」
「誰の話だ」
「試してきた者。あの夜、気配は三つありました」
「三つ……?」
「敵の足音。風に紛れた呼吸。そして――こちら側にある“気配”」
 矢野は、ゆっくりと剣に手を置いた。
「……つまり、潜んでると」
「ええ。でも、斬るためではありません」
「どうしてだ」
「“怖い”からです。――僕を見て、斬れなかったんです」
 それは確信だった。
 矛盾していたが、静は“敵意”よりも“怯え”を感じたのだ。
 それが、もっとも恐ろしかった。
     *
 その日、隊は小規模の移動をした。
 廃村のあった谷を抜け、次の地点へ。
 だが、進軍の途中――異変が起きた。
 斜面の草むらで、火花が散った。
 罠。
 仕掛けられた火矢が、乾いた枝を突き抜けて爆ぜた。
 煙が立ち込め、視界が奪われる。
「伏兵だ! 槍隊、前へ!」
 今村の声が響く。
 しかし斜面の上から降り注ぐ矢の雨に、動きが封じられた。
 静が言った。
「矢野さん」
「……ああ。やるんだな」
 二人は、走った。
 霧の中、敵の伏兵十数名が迫っていた。
 だが、静の剣がその先頭に届いた。
 切っ先は、まるで迷いなく、“斬る”ことだけに集中していた。
 矢野の槍も、鋭く宙を裂いた。
 二人の動きが交差し、火と煙の中で敵の動きを遮った。
 ――だが。
 その時、静の背に、矢の気配が迫った。
 斜面の上、樹の陰から、一人の男が狙っていた。
 ――間者。
 こちらの服を着ていたが、その眼に宿る色は違っていた。
 静は振り返らなかった。
 矢野が気づいた。
 足を蹴り、槍を構えるが、間に合わない。
 その刹那――
「やめろ!」
 叫び声が飛んだ。
 木陰から、もうひとりが飛び出す。
「やめろ、撃つな!」
 それは、味方の服を着た青年だった。
 おそらく新兵。
 声は震え、涙を流していた。
「この人を……撃たないでくれ……!」
 その言葉を受け、男は沖田を横目で見る。
 その先の沖田は据わった目で、じっと間者の男を見ていた。
 静かな視線だった。しかし、視線に物量があるならば、人を殺せそうな目をしていた。
 男は静かに矢を下ろした。
 青年の言葉に――そして、白装束の鬼神の圧に負けた。
 森が静かになった。
 戦いが、終わった。
     *
 間者は拘束され、青年は引きずられるように戻ってきた。
 その目は泣き腫らし、誰の顔も見なかった。
 夜、静がその青年の天幕を訪れた。
「……怖かったでしょう」
 青年は答えなかった。
 静は膝を折り、ゆっくりと、新兵の青年の手を取った。
「でも、あなたは、人の命を……僕の命を守ってくれた。それだけで、十分です」
「俺……ただ……怖くて、あなたを失うのが。あなたはどう見てもこの部隊の核だから」
「その判断が、救いになることもあります」
 沈黙が降りた。
 だが、その静けさのなかで、新兵の青年は小さく声をもらした。
「名前……教えてくれませんか」
 静は微笑んだ。
「沖田静です」
 それは、夜を越えた者にだけ与えられる、名の重みだった。