第十二話「裂け目が呼ぶ声を、誰が拾うか」
朝靄はまだ濃かった。
空の色は青を帯びていたが、森は灰色のまま静かに立っていた。
木柱には露が垂れ、苔むした石には雫が落ちていた。
この朝の空気には、いつにも増して緊張の張力があった。
兵たちは口に出さずとも感じていた。
“裂け目”が近づいていることを。
*
隊の進軍は、いつもより遅れた。
だれかが地図を確認し、だれかが地形を探り、だれかが心の準備を整えながら歩いていた。
静は歩幅を意識して調整していた。
右足の感覚がまだ完全ではない。
剣を握る手も震えが残っていた。
それでも――歩いていた。
誰かが冗談を言っても笑った。
誰かのふざけた歌声が後ろから聞こえても、顔を横にしないで聞いていた。
歩くことは、“前進”ではあるが、同時に“確認”でもあった。
――まだ、僕はここにいる。
*
昼下がり。
隊は、新たな前哨地となる小高い丘の上に差し掛かっていた。
地図に記されていない小径を通り抜けると、眼下に廃屋と倒れた柵が見えた。
遠い昔の平穏を遺したような、静かな痕跡。
矢野が、指をさした。
「行ってみるか?」
「はい」
ばらけず、二人は並んで丘を下りた。
*
廃屋の中は、風通しが良すぎるほど明るかった。
屋根は崩れ、壁も抜け、ただ床板だけが残っていた。
だが、その中央に石の祠が建っていた。
苔に覆われ、埃をかぶり、かすかに煤の匂いがする。
中には小さな仏像が収められていた――傷ついているように見えた。
「誰かが、ここで拝んでいたのか……」
静の声は震えた。
祠の中を覗いた目が、揺れていた。
矢野が、慎重に近づき、地面を探った。
「ここにも、誰かが来た痕跡がある」
足跡、小さな土の盛り上がり、朽ちた陶器の破片。
誰のものかはわからないが、“人”の生活が、ここにあった。
ふたりは祠の前に跪いた。
静は手を合わせ、だが指先に震えが伝わる。
「誰かの想いを、傷つけたのかもしれない」
静はそうつぶやき、自分の剣を見た。
そこに宿る冷たさが、祠の温度とは異なっているように感じた。
※
丘を再び登り、隊の本隊に戻ると、進軍の気配が変わっていた。
隊は刃を研ぎ、矢を番え、布を結い直し、呼吸を整えていた。
今村が声をかける。
「ここから先は、谷の先端部。地形は開けるが、背後に崖あり。敵の伏兵が入りやすい場所だ」
「了解」静が答えた。
その声は、落ち着いていた。
「今夜、ここで迎撃があるかもしれない」
今村の言葉に、無言のうなずきが返る。
それは覚悟でもあり、緊張でもあった。
※
空は夕焼けに染まっていた。
斜光が森を通り抜け、木々の影が長く伸びる。
その時間、森のざわめきが薄れていく。
動物の声も、木々の匂いも、すべてが“予兆”を孕んでいた。
誰かが、囁いた。
「敵が、動き出した」
その声は遠かったが、すでに届いていた。
足音が森に響いた。
向こう側から、静かに、しかし確実に。
「…来る」
矢野が呟いた。
※
迎撃の布陣。
弓兵が背後の樹々に張り付き、槍兵が前に散開する。
静は中心。それは盾でも、槍でもなく、剣を持つ者として。
水嶋がこっそり囁いた。
「…静、今日は頼んだぞ」
静は軽く頭を垂れ、ただ剣に触れた。
その刃は、昼の静けさと、夕の黄昏を映し出すように揺れていた。
*
敵が出た。
足音。影。瞬きの後に見える、兵影。
数は、ざっと三十。
谷の狭間に、火薬の匂い。遠くでひび割れるような弦の音。
「交戦!」
号令とともに、空気が振動した。
静は、剣を抜いた。
その刃が炎を呼んだ。
仲間の鼓舞となり、敵の心を揺らす。
最初の斬撃。
次の気配。
――敵が割れる。その破片が地に落ちる。
斬り続ける。
剣を抜き、次々と命を止める。
そのたびに、静の中の震えが小さく縮む。
戦術ではない。
ただ、“必要”だった。
そのとき、静の視界が揺れた。
敵影の群れが、ひとりの女兵に変わった。
――矢を抱えた、少女のような顔。
心が一瞬止まった。
剣を握る手が、左へ跳んだ。ただちにそれが幻覚だったと気づいたが、一瞬遅れた。
その刹那、敵の槍が襲いかかった。
蹴り出されたように、静は飛んだ。
剣の刃を横に払う。
しかし、浅く傷が入る。肩に初めての衝撃が走り、布に赤い染みが広がる。
痛みが走った。
だが、剣は揺るがなかった。
*
最後の一撃。
仲間の怒声が周囲から上がる。
剣が夜の影を裂き、敵を切り伏せた。
斬り合いは、終わった。
静は、膝をついた。
肩を押さえる右手が重い。
剣は、まだ鞘から抜けたままだった。
夜気が、傷に染みた。
「静…しっかりしろ」
矢野の声が近づく。
源田、佐々木、水嶋、早坂――仲間たちが集まってきた。
その目に映るのは、“斬る者”ではなく、“戻ってきた者”だった。
*
矢野は、静の剣を受け取り、そっと鞘に戻した。
「…剣、返させてくれ」
静は、それを拒まなかった。
剣は音なく納まった。
仲間たちは、天幕へと静を運ぶ。
支えられ、歩く。
誰も言葉をかけなかった。
ただ、その存在を支えるように、夜の闇が寄り添っていた。
――彼の名を呼ぶために、彼はまた歩いていた。
※
夜明けには、風が戻っていた。
空は白くなり、鳥が鳴き、露の音が落ちた。
そんな静かな朝に、水嶋が口を開いた。
「斬った数を、誰も訊かなかったな」
誰かが笑ったような気がしたが、皆は言葉を飲んだ。
代わりに、矢野が言った。
「呼ぶ数でもなく、斬った数でもない。大事なのは、誰のそばにいたかだ」
その言葉は、小さな灯のように、夜を照らしていた。
朝靄はまだ濃かった。
空の色は青を帯びていたが、森は灰色のまま静かに立っていた。
木柱には露が垂れ、苔むした石には雫が落ちていた。
この朝の空気には、いつにも増して緊張の張力があった。
兵たちは口に出さずとも感じていた。
“裂け目”が近づいていることを。
*
隊の進軍は、いつもより遅れた。
だれかが地図を確認し、だれかが地形を探り、だれかが心の準備を整えながら歩いていた。
静は歩幅を意識して調整していた。
右足の感覚がまだ完全ではない。
剣を握る手も震えが残っていた。
それでも――歩いていた。
誰かが冗談を言っても笑った。
誰かのふざけた歌声が後ろから聞こえても、顔を横にしないで聞いていた。
歩くことは、“前進”ではあるが、同時に“確認”でもあった。
――まだ、僕はここにいる。
*
昼下がり。
隊は、新たな前哨地となる小高い丘の上に差し掛かっていた。
地図に記されていない小径を通り抜けると、眼下に廃屋と倒れた柵が見えた。
遠い昔の平穏を遺したような、静かな痕跡。
矢野が、指をさした。
「行ってみるか?」
「はい」
ばらけず、二人は並んで丘を下りた。
*
廃屋の中は、風通しが良すぎるほど明るかった。
屋根は崩れ、壁も抜け、ただ床板だけが残っていた。
だが、その中央に石の祠が建っていた。
苔に覆われ、埃をかぶり、かすかに煤の匂いがする。
中には小さな仏像が収められていた――傷ついているように見えた。
「誰かが、ここで拝んでいたのか……」
静の声は震えた。
祠の中を覗いた目が、揺れていた。
矢野が、慎重に近づき、地面を探った。
「ここにも、誰かが来た痕跡がある」
足跡、小さな土の盛り上がり、朽ちた陶器の破片。
誰のものかはわからないが、“人”の生活が、ここにあった。
ふたりは祠の前に跪いた。
静は手を合わせ、だが指先に震えが伝わる。
「誰かの想いを、傷つけたのかもしれない」
静はそうつぶやき、自分の剣を見た。
そこに宿る冷たさが、祠の温度とは異なっているように感じた。
※
丘を再び登り、隊の本隊に戻ると、進軍の気配が変わっていた。
隊は刃を研ぎ、矢を番え、布を結い直し、呼吸を整えていた。
今村が声をかける。
「ここから先は、谷の先端部。地形は開けるが、背後に崖あり。敵の伏兵が入りやすい場所だ」
「了解」静が答えた。
その声は、落ち着いていた。
「今夜、ここで迎撃があるかもしれない」
今村の言葉に、無言のうなずきが返る。
それは覚悟でもあり、緊張でもあった。
※
空は夕焼けに染まっていた。
斜光が森を通り抜け、木々の影が長く伸びる。
その時間、森のざわめきが薄れていく。
動物の声も、木々の匂いも、すべてが“予兆”を孕んでいた。
誰かが、囁いた。
「敵が、動き出した」
その声は遠かったが、すでに届いていた。
足音が森に響いた。
向こう側から、静かに、しかし確実に。
「…来る」
矢野が呟いた。
※
迎撃の布陣。
弓兵が背後の樹々に張り付き、槍兵が前に散開する。
静は中心。それは盾でも、槍でもなく、剣を持つ者として。
水嶋がこっそり囁いた。
「…静、今日は頼んだぞ」
静は軽く頭を垂れ、ただ剣に触れた。
その刃は、昼の静けさと、夕の黄昏を映し出すように揺れていた。
*
敵が出た。
足音。影。瞬きの後に見える、兵影。
数は、ざっと三十。
谷の狭間に、火薬の匂い。遠くでひび割れるような弦の音。
「交戦!」
号令とともに、空気が振動した。
静は、剣を抜いた。
その刃が炎を呼んだ。
仲間の鼓舞となり、敵の心を揺らす。
最初の斬撃。
次の気配。
――敵が割れる。その破片が地に落ちる。
斬り続ける。
剣を抜き、次々と命を止める。
そのたびに、静の中の震えが小さく縮む。
戦術ではない。
ただ、“必要”だった。
そのとき、静の視界が揺れた。
敵影の群れが、ひとりの女兵に変わった。
――矢を抱えた、少女のような顔。
心が一瞬止まった。
剣を握る手が、左へ跳んだ。ただちにそれが幻覚だったと気づいたが、一瞬遅れた。
その刹那、敵の槍が襲いかかった。
蹴り出されたように、静は飛んだ。
剣の刃を横に払う。
しかし、浅く傷が入る。肩に初めての衝撃が走り、布に赤い染みが広がる。
痛みが走った。
だが、剣は揺るがなかった。
*
最後の一撃。
仲間の怒声が周囲から上がる。
剣が夜の影を裂き、敵を切り伏せた。
斬り合いは、終わった。
静は、膝をついた。
肩を押さえる右手が重い。
剣は、まだ鞘から抜けたままだった。
夜気が、傷に染みた。
「静…しっかりしろ」
矢野の声が近づく。
源田、佐々木、水嶋、早坂――仲間たちが集まってきた。
その目に映るのは、“斬る者”ではなく、“戻ってきた者”だった。
*
矢野は、静の剣を受け取り、そっと鞘に戻した。
「…剣、返させてくれ」
静は、それを拒まなかった。
剣は音なく納まった。
仲間たちは、天幕へと静を運ぶ。
支えられ、歩く。
誰も言葉をかけなかった。
ただ、その存在を支えるように、夜の闇が寄り添っていた。
――彼の名を呼ぶために、彼はまた歩いていた。
※
夜明けには、風が戻っていた。
空は白くなり、鳥が鳴き、露の音が落ちた。
そんな静かな朝に、水嶋が口を開いた。
「斬った数を、誰も訊かなかったな」
誰かが笑ったような気がしたが、皆は言葉を飲んだ。
代わりに、矢野が言った。
「呼ぶ数でもなく、斬った数でもない。大事なのは、誰のそばにいたかだ」
その言葉は、小さな灯のように、夜を照らしていた。



