名もなき剣に、雪が降る

第十一話「僕が人でなくなったなら、君は何をしてくれるか」

 夜の風が止んだ。
 いつものように木の葉を揺らさず、焚き火の炎をなぶらず、ただ地を這うようにして沈んでいた。
 その風の中で、矢野は眠らずに座っていた。
 静の天幕の近く。
 明かりも火も灯さず、じっと耳を澄ましている。
 寝返りの音、布のこすれる音、呻き。
 そして、短く、途切れるような吐息。
 静の夢が、また“戦場”へ引きずっている。
 何日目だろう、と矢野は思う。
 “あの夜”以来、沖田静は、どこかで“誰か”と交替してしまったようだった。
 笑わない。
 言葉の間が微妙に遅れる。
 誰かの名前を呼ぶとき、ほんの一瞬、迷うような表情を浮かべる。
 “人としての輪郭”が、音もなく削れていく。
     ※
 天幕の奥で、小さく呻く声がした。
 矢野は即座に立ち上がり、布をそっとくぐった。
 静は、身体を起こしていた。
 額に汗。息は浅く、喉の奥で吐息を繰り返していた。
「……夢か?」
 矢野の問いに、静は首を横に振った。
「……夢でした。でも……目が覚めても、まだ夢の中にいるような気がするんです」
「なにが見えた」
「……敵を斬りました。何度も。何人も。……でも、顔が、皆、源田さんだった」
 矢野は一瞬、言葉を失った。
 静の手が、掛け布の上で微かに震えていた。
 その指は、まだ“斬る感触”を、思い出していた。
     *
「俺が昔、初めて人を殺したときの話、するか」
 静がわずかに顔を上げる。
「……聞きたいです」
「三人目だった。最初の二人は、あまり記憶にない。でも三人目は……俺の顔、見てた。俺が槍を突き立てる瞬間まで、ずっとこっちを見てた」
 矢野の声は穏やかだった。
 語るというより、擦り切れた記憶を撫でるような声音だった。
「斃れたあとも、その目がこっちを見てる気がして、……しばらく飯が喉を通らなかった。誰かが喋ってても、その声が遠くなる。血の匂いだけが、いつまでも消えない」
 静は頷いた。
「……僕も、そうでした。初めて斬った相手の顔が、いまだに夢に出てきます」
「どう乗り越えた?」
「……乗り越えてません。忘れたふりをしてただけです。……でも、それが“積み重なった”結果が、今の僕です」
 矢野はそっと、静の手を取った。
「おまえの手は冷たいけど、まだ、生きてる。なあ静――“俺が人でなくなったら、斬れ”って、前に言っただろ」
「はい」
「……悪いが、無理だ。俺には、おまえを斬るなんてできねえ」
 静が目を見開いた。
 矢野は続けた。
「代わりに、おまえが“人じゃなくなりそう”になったら――引き戻す。何度でも。おまえが迷っても、震えても、全部支える。……だから、おまえは、生きろ」
 その言葉を、静はすぐに受け取れなかった。
 喉が詰まっていた。
 声が出なかった。
 それでも――
「矢野さん」
 ようやく掠れた声で名を呼び、静は、ぽつりと言った。
「それでも、もし……僕が、誰も助けられなくなって、誰の名も呼べなくなって、自分の存在が、ただの“剣”になったら――」
「なら、そのときは、俺が名を呼ぶ」
 矢野の言葉は、夜を照らす火だった。
「何度でも呼ぶ。静、おまえの名前を。“おまえは人間だ”って、言い続ける」
 静は、涙を流さなかった。
 けれど、肩の力がすっと抜けた。
 ようやく、眠れる――そんな顔をしていた。
     ※
 朝。
 いつもより静の目覚めはゆっくりだった。
 だが、その顔には微かに血の気が戻っていた。
 源田が声をかけた。
「……静さん、昨日より、ちょっとだけ顔が“人間”っぽいです」
 静は小さく笑った。
「それは、褒めていただいているんでしょうか」
「いいんです。褒め言葉です。……ずっと、怖かったから。静さんが、誰にも届かない場所に行ってしまいそうで」
「……大丈夫です。今、引き戻してもらったところです」
「……誰に?」
 静は、少しだけ目を伏せた。
「剣じゃなくて、“名前”で、呼んでくれる人に」
     *
 その日、軍の進軍が再開された。
 また新しい戦場が待っていた。
 敵の数も、規模も、見えないままだった。
 それでも、兵たちの足取りには、“名を呼び合う者たち”の覚悟が宿っていた。
 白装束はまだ乾いていなかった。
 けれど、そこに宿る者の目は、たしかに、前を向いていた。
 ――斬ることは、終わらない。
 ――でも、“斬るだけの存在”には、ならない。
 沖田静は、そう誓っていた。
 名を呼ばれた夜のぬくもりを、右手に残したまま。