名もなき剣に、雪が降る

第十話「この手が覚えているのは、誰の鼓動だったか」

 夜の底で、静は目を覚ました。
 天幕の内はしんとしていた。
 息づかいひとつ、衣擦れひとつ、眠る兵たちの命が音になって微かに揺れている。
 静は、立っていた。
 いつから立っていたのかわからない。
 寝ていたはずなのに、気づいたときには剣の柄を握っていた。
 濡れていた。
 布団ではない。剣の柄が。
 それが冷や汗か、幻の血か、あるいは――。
 静は、ゆっくりと剣を鞘に戻した。
 その音がやけに響いた気がして、周囲の誰かを起こしたのではないかと一瞬だけ怯えた。
 誰も動かない。
 誰も気づかない。
 だからこそ、余計に、怖かった。
     *
「静、起きてるか?」
 明け方、火の番を交代に来た矢野が声をかけた。
「はい」
 静は、火の傍らに膝を抱えて座っていた。
「眠れたか?」
「……わかりません。夢のなかに夢があったような気がして……起きてからも、どこが現実かわからないままです」
 矢野は、それを冗談と受け取らなかった。
 火の上で湯が沸く音がする。
 湿った薪の匂いが鼻を刺す。
「……なあ」
 矢野は、言葉を探していた。
 迷って、選んで、それでも結局、不器用な一言を落とした。
「つらいか?」
 静は、すぐには答えなかった。
 火が、ぱちりと爆ぜる。
「はい。……でも、それを“つらい”と言ってしまうと、斬った人たちが、ただの“痛みの数”になってしまう気がするんです」
「……じゃあ、どうしたい?」
「わかりません」
 静の声は、あまりにも穏やかだった。
 それが、矢野にはこわかった。
     ※
 日が昇った。
 軍は移動を始めた。
 敵軍が撤退した谷を超え、次の前線地へと向かうためだった。
 移動中、誰かが言った。
「静さん、顔色、悪くないか?」
「最近、食ってねえよな」
「水嶋さんが無理やり握った握り飯も、小さいのひとつしか口にしてなかったって……」
 誰も明言はしなかったが、皆が薄々、感じていた。
 静の様子が、どこかおかしい。
 たとえば、誰かが笑って冗談を言っても、静は反応しなかった。
 まるで、その言葉の意味が、遠く彼方の言語になってしまったかのように。
 誰かが怪我をしても、すぐに駆け寄ることができなかった。
 自分の足が、誰かを助けるために動くという、“当たり前”を忘れているように。
 ――静さん、どうしちゃったんだろうな。
 そう言葉にしてしまえば崩れてしまいそうで、誰も口に出せなかった。
     ※
 その夜、静は再び夢を見た。
 霧のなか、自分が剣を振っていた。
 倒れる人間の顔が、誰ひとり見えなかった。
 声もない。血もない。ただ、音だけがある。
 斬る音。骨の砕ける音。布が裂ける音。
 “生きるため”に斬っていたはずなのに、その剣の先には誰もいなかった。
 斬っても斬っても終わらない。
 地面には、名前のない屍ばかりが横たわっていた。
「静さん」
 誰かが呼んだ。
 振り返ると、そこに源田がいた。
 子どものような目をしていた。
「どうして、俺まで斬ったんですか」
 静は剣を見た。
 血がついていないはずの刃に、確かに、源田の声が染みついていた。
「あなたが……泣いていたからです」
 そう答えた自分の声が、誰のものか、わからなかった。
     ※
 翌朝、静は天幕の外で嘔吐した。
 矢野が気づいたときには、すでに膝をつき、背を丸めていた。
「静……!」
 駆け寄って背をさする。
 静の身体は、氷のように冷たかった。
「……ごめんなさい。……起こすつもりじゃ……」
「黙ってろ。……息、浅い。汗、冷たいな……」
 矢野が水を渡し、静はそれを受け取ったが、口元に運ぶ前に手が震え、水がこぼれた。
「病気か?」
「……違います。たぶん、心のほう、です」
 その答えを、矢野は笑えなかった。
「わかってる。……だって、おまえさ」
 矢野は、静の右手をそっと握った。
「ずっとこの手で、誰かの命を止めてきたんだろ。――おかしくならないわけ、ないんだよ」
 静は、反論しなかった。
 涙も流さなかった。
 ただ、黙って、自分の手を見ていた。
 その手が、まだ“何か”を覚えていることに、怯えるように。
     ※
 その日、静は戦列を外れた。
 命令ではなかった。
 今村が、申し出たのだ。
「すまん。しばらく静を、前には出したくない」
「俺が見る」
 矢野が即答した。
 誰も反対しなかった。
     ※
 その夜、隊は初めて、沖田静なしで陣を敷いた。
 不安はあった。
 けれど、誰もその不安を静に向けることはなかった。
 火のそばで、源田がぽつりと呟いた。
「静さんって、やっぱり……」
「人間だよ」
 水嶋が言った。
「化け物みたいなことをしてても、中身はちゃんと人間だ。……だから、おまえも、おれも、今、あいつを守る番なんだ」
     ※
 火の奥。
 静は、夢を見ていた。
 まだ、斬っていた。
 でもそのとき、誰かが手を握ってくれていた。
 そのぬくもりを、たしかに手のひらが、覚えていた。