第九話「それは、“人間”の姿をしていたか」
夜の谷は、死んでいた。
風は止まり、鳥も鳴かず、ただ濡れた土の匂いが鼻腔に残った。
人の血が、草を濡らし、樹の根を染め、石のくぼみに溜まっていた。
静寂とは、音がないことではない――すべてが終わったあとに訪れる、“戻れない”沈黙のことを、そう呼ぶのだと誰かが言っていた。
その中に、沖田静は立っていた。
白装束は赤黒く染まり、右手には鞘に戻されていない剣。
呼吸は静かだった。
まるで、すべてを終えた“後”の者のように、静はそこにいた。
※
「……動けるか、源田」
矢野の声に、源田がうなずいた。
「ああ、だ、大丈夫だ……っ」
足元の血の海を避けるようにして、仲間たちは静のいる方へと向かっていた。
だが、誰もすぐには声をかけなかった。
静の背に、近づけなかった。
あれほど多くの敵兵が倒れているのに――沖田静は、息一つ乱していなかった。
剣は磨き抜かれた鏡のように、まだ濡れていた。
「静……おまえ、大丈夫か」
ようやく矢野が言葉を絞り出した。
静はゆっくりと振り返った。
その瞳は、透明だった。
深い湖の底を覗くような――もしくは、まったく何も映さない鏡のような。
「……はい。無事です」
静の声は、あまりにも静かだった。
それが恐ろしかった。
※
兵たちは、後方へと下がる準備を始めた。
敵軍の進軍を止めたという事実が、まず何よりも価値を持った。
味方の主力が谷の反対側へと移動するまでの時間を稼ぐために――静は戦った。
その結果として、彼の周囲には、屍が累々と積み重なっていた。
「……あれが、“白装束の鬼神”ってやつか」
誰かがぽつりと呟いた。
源田がふいに言った。
「違います。……あの人は、“鬼”じゃない」
「……じゃあ、なんだよ。あんな斬り方、人間じゃねえ」
源田は唇を噛みしめながら答えた。
「“人間”ですよ。……俺、見ました。あの人が、敵を斬ったあと……一瞬、手を震わせてたの」
誰も、言葉を返さなかった。
震え。
それは、恐れか。悲しみか。あるいは、罪か。
それでも、沖田静は前を向いていた。
誰よりも、人を護るために。
※
後方への退却が始まった。
戦闘不能者を運び、資材を回収し、道を塞ぐ。
矢野は、その指揮をとる立場にいた。
「静、少し休め。おまえの手が必要なのは、これからだ」
「……はい」
静は返事をし、岩の影で一人、腰を下ろした。
剣はまだ鞘に納められていなかった。
手が、乾いていた。
何十人もの命を奪ったのに、血はもう乾いていた。
指の関節が、かすかに震えていることに、静自身が気づいていなかった。
「……見ていた、んですか」
声に気づき、顔を上げると、早坂が立っていた。
無口な弓兵。
矢はもう射尽くしており、背には空の矢筒だけが残っていた。
「見ていた。……でも、見えなかった」
「……?」
「おまえの剣は、見えなかった。……ただ、風が吹いて、音がして、人が倒れていた」
静は、それを肯定も否定もしなかった。
早坂は小さくうなずいて、こう言った。
「でも、ひとつだけ、見えたものがある」
「……なんでしょう」
「“悲しさ”だった」
静は、何も返せなかった。
※
夜が明けた。
朝靄の中、谷を抜けて後方へ戻った部隊は、再び天幕を組み直していた。
新たな戦地へ向かう前の、つかのまの停滞だった。
その中で、兵たちは語りはじめていた。
「静さんがいなかったら、俺たち全滅してた」
「いや……俺、見ちまったよ。あの人の背中。……あれ、誰にも背負えないよ」
「でもさ、俺らが今ここにいるのは、あの人が斬ったからだ」
「じゃあ、おまえ、代わりに斬れるか?」
「……無理だよ」
言葉が、交差する。
誰もが、答えを持たないまま。
※
静は、あの夜のことを記録しなかった。
報告書は矢野が書いた。
「斬った」とは記さなかった。
ただ、「敵軍を撃退」とだけ書かれていた。
それが、あの夜の戦いのすべてだった。
だが、兵たちの中には、刻まれていた。
“白装束の剣士が、誰も死なせずに、敵を止めた夜”として。
*
その夜、火の前で、源田がぽつりと言った。
「静さんって、どうして斬れるんだろうな。……怖くないんだろうか」
矢野が答えた。
「怖いさ。あいつは、怖くなくなったら、自分を殺せって言ったことがある」
「え……?」
「“僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください”ってな」
静かな焚き火の音が、まるで返事のようにぱちりと弾けた。
源田は、それ以上何も言えなかった。
*
誰かが、言った。
「あれは、本当に“人間”だったのか」
その問いに、誰かが答えた。
「……違うよ。あれは、“人間であり続けようとしてる者”なんだよ」
夜の谷は、死んでいた。
風は止まり、鳥も鳴かず、ただ濡れた土の匂いが鼻腔に残った。
人の血が、草を濡らし、樹の根を染め、石のくぼみに溜まっていた。
静寂とは、音がないことではない――すべてが終わったあとに訪れる、“戻れない”沈黙のことを、そう呼ぶのだと誰かが言っていた。
その中に、沖田静は立っていた。
白装束は赤黒く染まり、右手には鞘に戻されていない剣。
呼吸は静かだった。
まるで、すべてを終えた“後”の者のように、静はそこにいた。
※
「……動けるか、源田」
矢野の声に、源田がうなずいた。
「ああ、だ、大丈夫だ……っ」
足元の血の海を避けるようにして、仲間たちは静のいる方へと向かっていた。
だが、誰もすぐには声をかけなかった。
静の背に、近づけなかった。
あれほど多くの敵兵が倒れているのに――沖田静は、息一つ乱していなかった。
剣は磨き抜かれた鏡のように、まだ濡れていた。
「静……おまえ、大丈夫か」
ようやく矢野が言葉を絞り出した。
静はゆっくりと振り返った。
その瞳は、透明だった。
深い湖の底を覗くような――もしくは、まったく何も映さない鏡のような。
「……はい。無事です」
静の声は、あまりにも静かだった。
それが恐ろしかった。
※
兵たちは、後方へと下がる準備を始めた。
敵軍の進軍を止めたという事実が、まず何よりも価値を持った。
味方の主力が谷の反対側へと移動するまでの時間を稼ぐために――静は戦った。
その結果として、彼の周囲には、屍が累々と積み重なっていた。
「……あれが、“白装束の鬼神”ってやつか」
誰かがぽつりと呟いた。
源田がふいに言った。
「違います。……あの人は、“鬼”じゃない」
「……じゃあ、なんだよ。あんな斬り方、人間じゃねえ」
源田は唇を噛みしめながら答えた。
「“人間”ですよ。……俺、見ました。あの人が、敵を斬ったあと……一瞬、手を震わせてたの」
誰も、言葉を返さなかった。
震え。
それは、恐れか。悲しみか。あるいは、罪か。
それでも、沖田静は前を向いていた。
誰よりも、人を護るために。
※
後方への退却が始まった。
戦闘不能者を運び、資材を回収し、道を塞ぐ。
矢野は、その指揮をとる立場にいた。
「静、少し休め。おまえの手が必要なのは、これからだ」
「……はい」
静は返事をし、岩の影で一人、腰を下ろした。
剣はまだ鞘に納められていなかった。
手が、乾いていた。
何十人もの命を奪ったのに、血はもう乾いていた。
指の関節が、かすかに震えていることに、静自身が気づいていなかった。
「……見ていた、んですか」
声に気づき、顔を上げると、早坂が立っていた。
無口な弓兵。
矢はもう射尽くしており、背には空の矢筒だけが残っていた。
「見ていた。……でも、見えなかった」
「……?」
「おまえの剣は、見えなかった。……ただ、風が吹いて、音がして、人が倒れていた」
静は、それを肯定も否定もしなかった。
早坂は小さくうなずいて、こう言った。
「でも、ひとつだけ、見えたものがある」
「……なんでしょう」
「“悲しさ”だった」
静は、何も返せなかった。
※
夜が明けた。
朝靄の中、谷を抜けて後方へ戻った部隊は、再び天幕を組み直していた。
新たな戦地へ向かう前の、つかのまの停滞だった。
その中で、兵たちは語りはじめていた。
「静さんがいなかったら、俺たち全滅してた」
「いや……俺、見ちまったよ。あの人の背中。……あれ、誰にも背負えないよ」
「でもさ、俺らが今ここにいるのは、あの人が斬ったからだ」
「じゃあ、おまえ、代わりに斬れるか?」
「……無理だよ」
言葉が、交差する。
誰もが、答えを持たないまま。
※
静は、あの夜のことを記録しなかった。
報告書は矢野が書いた。
「斬った」とは記さなかった。
ただ、「敵軍を撃退」とだけ書かれていた。
それが、あの夜の戦いのすべてだった。
だが、兵たちの中には、刻まれていた。
“白装束の剣士が、誰も死なせずに、敵を止めた夜”として。
*
その夜、火の前で、源田がぽつりと言った。
「静さんって、どうして斬れるんだろうな。……怖くないんだろうか」
矢野が答えた。
「怖いさ。あいつは、怖くなくなったら、自分を殺せって言ったことがある」
「え……?」
「“僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください”ってな」
静かな焚き火の音が、まるで返事のようにぱちりと弾けた。
源田は、それ以上何も言えなかった。
*
誰かが、言った。
「あれは、本当に“人間”だったのか」
その問いに、誰かが答えた。
「……違うよ。あれは、“人間であり続けようとしてる者”なんだよ」



