名もなき剣に、雪が降る

第八話「誰が、火の中を駆け抜けるか」

 その夜、風が変わった。
 南から吹いていた風が、夜明けを待たず東へ回り込む。
 焼けた土の匂い。遠くの湿地に火が放たれたのだと、誰ともなく囁かれた。
 天幕の中で目を覚ました者たちは、無言のまま衣服を整え、武器の手入れを始めていた。
 何も命じられていなかったが、皆、わかっていた。
 戦が、すぐそこまで来ていた。
     *
「先遣隊、壊滅したらしい」
 水嶋が呟いた。
 言葉は火の音に紛れて、風とともに天幕の骨組みに染み込んでいくようだった。
「……ほんとか?」
 源田の問いに、今村が頷く。
 表情に嘘はなかった。
「敵の規模が想定より大きい。斥候の報告じゃ、百五十から二百。散開して谷を潰すつもりだ」
「じゃあ、俺らは……」
「迎撃だ。命令はまだだが、おそらく今日のうちに出る」
 沈黙が落ちた。
 兵たちは、口を閉ざす。
 誰もが「来る」と知っていたものが、ついに「来るかもしれない」現実へ変わったとき――
 心は、言葉を失う。
     *
 その日、静は剣の手入れをしていた。
 朝から三度目の手入れだった。
 布で丁寧に油を拭き取り、微かな錆びの気配を感じ取るたび、目が鋭くなる。
「静」
 矢野の声が、火の外から届く。
「今村からだ。集合だと」
 静は頷き、鞘を腰に戻した。
「……戦ですか」
「わからん。でも、行けばわかる」
     *
 天幕の中央、地面に広げられた地図の上に、数本の矢印が置かれていた。
「敵はすでに東の尾根に達したとの報告がある。進軍速度は早く、我々の本陣を巻き込む形になる可能性が高い」
 今村が告げる声は落ち着いていたが、わずかに掠れていた。
「今夜、我々の部隊に先行しての迎撃命令が下る可能性がある」
「先行? 俺たちが?」
 水嶋が思わず口を挟む。
「斥候も、迎撃も――今夜、この谷を封じなければ、本隊に火が及ぶ。……つまり、“時間を稼げ”という命令だ」
 静が一歩前に出る。
「隊は、分けますか」
「分けるべきかと思うが……静、ひとつだけ訊く。もし、敵が数で押してきたら、おまえはどうする」
 今村の目が、静を捉える。
 静は、その目から視線を外さなかった。
「僕が斬るだけです」
 しん、と空気が止まる。
 その言葉は、誰もが心の奥にしまっていた“願望”だった。
 ――静が、斬ってくれる。
 ――あの白装束が、敵を止めてくれる。
 だが、それは同時に“依存”でもあった。
 静の言葉を肯定すればするほど、誰もが彼に背を預けすぎていく。
 その重さを、静は承知していた。
 けれど、黙って引き受けた。
「僕が行きます。……誰も死なせないために」
     ※
 出発は、夜半だった。
 月は細く、雲に隠れていた。
 矢野と静、そして水嶋、早坂、佐々木、源田。
 半数を選抜し、谷の防衛線へ向かう。
 誰も声を上げなかった。
 ただ装備を確かめ、足音を潜める。
 出発の合図がかかると、兵たちは一斉に頭を下げて見送った。
「静――」
 声をかけようとして、今村は言葉を飲み込んだ。
 その背中が、あまりに“遠く”に見えたからだ。
     ※
 谷の防衛線に到着したのは、夜がもっとも深くなる頃だった。
 焚き火を使えず、息が白く、濡れた苔の匂いが鼻を刺す。
 木立の奥で、敵の足音がした。
 矢野が息を潜めて呟く。
「……来る」
 静は剣を抜かず、ただ鞘に手を添える。
 その姿が、仲間の鼓動を整える。
 敵の姿が見えた。
 ――十、二十、三十。いや、それ以上。
 足音の密度が、空気を押し返してくる。
「数が、違う」
 源田の声が震えた。
「この数、さすがに……!」
「大丈夫だ」
 静が言った。
 その声には、恐れも、怒りもなかった。
「僕が斬ります。……皆さんは、死なないでください」
 言い終えると、静はひとり、前へ歩き出した。
 白装束が、木立の闇に揺れる。
「静! 待て、おまえひとりで行くな!」
 矢野が叫ぶ。
 だが静は振り返らない。
 その背を、風が押していた。
 まるで、“誰かの願い”が風になったかのように。
 敵が気づいた。
 ひとりの白い兵が、ただひとりでこちらへ歩いてくる。
 その異様さに、足を止めた。
「なんだ……あれは……」
 叫びとともに、矢が放たれる。
 静は走らない。
 ただ、一歩、また一歩、足を進める。
 矢が風を裂き、白布を掠める。
 次の瞬間、剣が抜かれた。
 “ひと振り”。
 風が切り裂かれたのは、剣の音ではない。
 それは、“意思”の音だった。
 敵兵がひとり、倒れる。
 次の刹那、静が動いた。
 まるで霧そのものが斬撃となって形を得たように、白い閃光が斬り込んでいく。
「止めろ! あいつを――!」
 叫びは間に合わなかった。
 静の剣は、誰にも見えなかった。
 ただ、倒れた音だけが、時間を刻んでいった。
 十、二十、三十――
 静は、斬り続けていた。
 誰の名も呼ばず。
 誰の声も聞かず。
 ただ、“この場所を越えさせない”という意志だけを持って。
 彼がいた場所には、血がなかった。
 血が落ちる前に、剣がすでに次の命を止めていたからだ。
 背後で、矢野が呟いた。
「静……おまえは……」
 その言葉は、風にさらわれた。