第七話「語られなかったものを背負って」
谷を出たのは、日が高くなりはじめた頃だった。
霧はようやく薄れ、陽が地面に差しはじめていたが、ふたりの足取りは重かった。
目立った戦闘はなかった。剣も抜かなかった。
けれど、それはただの静かな任務ではなかった。
斬らなかったという事実が、斬ること以上に、心に影を落としていた。
矢野は何も言わなかった。
静もまた、黙って歩いていた。
ふたりの間にあったのは、名も形もない、“判断の痕”だった。
※
天幕へ戻ると、今村がすぐに駆け寄ってきた。
「無事か! 報告だけ聞いて、何があったのか……」
「報告書にまとめます。口頭での説明よりも、正確に伝えられますので」
静がそう言った。
その声は落ち着いていたが、どこか湿り気を帯びていた。
霧の残り香のように、言葉の端に迷いがあった。
今村は頷いたものの、納得しきった表情ではなかった。
「わかった。……疲れただろ。今日は休め」
静は一礼し、天幕へ戻っていった。
その背を見送っていた矢野が、今村の隣に立って言った。
「何も起こらなかったように見えるときほど、何かが壊れてるときがある」
「壊れたのか、あいつは」
「いや。……あいつは、守った。でも、守ることが全部正解じゃないってことも、知ってる」
※
その夜、静は手帳を開いていた。
谷の記録を書きつける。足跡の数、話した言葉、出会った目の色。
どれも事実だが、どこか“言葉にできないもの”が、頁の余白に溜まっていった。
筆が止まる。
紙の上に、手がかすかに震えた。
言葉にできないものは、次第に輪郭を持たなくなり、
やがて“沈黙”という名の中に消えていく。
静は筆を置いた。
そして、ふと、ひとつ息をついた。
それは、剣の手入れをするときの呼吸に似ていた。
※
翌朝、報告書を受け取った副官が、眉をひそめて言った。
「敵影なし、流民と接触。交戦回避、指揮判断に基づく。……それだけか?」
静は頷いた。
「他には?」
「ありません」
「敵とみなさなかった根拠は?」
「武装の状態と言動、子どもの存在、明確な敵意の不在。すべて現場で確認しました」
副官はしばらく黙ってから、書類に捺印した。
「……了解した。上層部にそのまま回す。だが、今後、類似の判断は慎重を期すように」
「承知しました」
そのやり取りを、矢野が少し離れた場所で見ていた。
静の立ち姿は、揺るがなかった。
けれどその背中は――静かに、疲れていた。
※
その日の午後、源田が近くで鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。
「なあ、矢野。静さんって……いつ寝てるんだ」
「……たぶん、寝てても、寝てない」
「え?」
「夢のなかでも、誰かを守ってるんじゃないか、あいつは」
源田は少し黙ってから、味噌を入れすぎたことに気づいて舌を出した。
「それって、疲れるだろうな……」
「疲れるよ。だからたまに、何も言わずに焚き火の前にいたら、そっとしといてやれ」
「……わかった」
※
夜、火のそばに座っていた静の前に、水嶋が酒の入った器を置いた。
「飲めるか?」
「少しなら」
ふたりは並んで火を見た。
言葉はなかった。
けれど、沈黙の中には、たしかな“許し”があった。
「おまえ、さ」
水嶋がぽつりと言った。
「この先、何人斬ることになると思う?」
「わかりません」
「そっか。……俺も、わからない。怖いよな」
「ええ、怖いです」
「でも、おまえが“怖い”って言ってくれると、なんか安心する」
静は、微かに笑った。
その笑みは、夜の火よりも、あたたかかった。
※
その夜、風向きが変わった。
遠くから、火薬と煙の匂いが届いた。
敵軍の大規模な移動が始まったという情報が、夜明けとともに伝えられた。
戦が、動き出す。
静は、自ら剣を研いだ。
その刃に、自分の顔が映る。
映った顔は、たしかに“人”のものだった。
谷を出たのは、日が高くなりはじめた頃だった。
霧はようやく薄れ、陽が地面に差しはじめていたが、ふたりの足取りは重かった。
目立った戦闘はなかった。剣も抜かなかった。
けれど、それはただの静かな任務ではなかった。
斬らなかったという事実が、斬ること以上に、心に影を落としていた。
矢野は何も言わなかった。
静もまた、黙って歩いていた。
ふたりの間にあったのは、名も形もない、“判断の痕”だった。
※
天幕へ戻ると、今村がすぐに駆け寄ってきた。
「無事か! 報告だけ聞いて、何があったのか……」
「報告書にまとめます。口頭での説明よりも、正確に伝えられますので」
静がそう言った。
その声は落ち着いていたが、どこか湿り気を帯びていた。
霧の残り香のように、言葉の端に迷いがあった。
今村は頷いたものの、納得しきった表情ではなかった。
「わかった。……疲れただろ。今日は休め」
静は一礼し、天幕へ戻っていった。
その背を見送っていた矢野が、今村の隣に立って言った。
「何も起こらなかったように見えるときほど、何かが壊れてるときがある」
「壊れたのか、あいつは」
「いや。……あいつは、守った。でも、守ることが全部正解じゃないってことも、知ってる」
※
その夜、静は手帳を開いていた。
谷の記録を書きつける。足跡の数、話した言葉、出会った目の色。
どれも事実だが、どこか“言葉にできないもの”が、頁の余白に溜まっていった。
筆が止まる。
紙の上に、手がかすかに震えた。
言葉にできないものは、次第に輪郭を持たなくなり、
やがて“沈黙”という名の中に消えていく。
静は筆を置いた。
そして、ふと、ひとつ息をついた。
それは、剣の手入れをするときの呼吸に似ていた。
※
翌朝、報告書を受け取った副官が、眉をひそめて言った。
「敵影なし、流民と接触。交戦回避、指揮判断に基づく。……それだけか?」
静は頷いた。
「他には?」
「ありません」
「敵とみなさなかった根拠は?」
「武装の状態と言動、子どもの存在、明確な敵意の不在。すべて現場で確認しました」
副官はしばらく黙ってから、書類に捺印した。
「……了解した。上層部にそのまま回す。だが、今後、類似の判断は慎重を期すように」
「承知しました」
そのやり取りを、矢野が少し離れた場所で見ていた。
静の立ち姿は、揺るがなかった。
けれどその背中は――静かに、疲れていた。
※
その日の午後、源田が近くで鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。
「なあ、矢野。静さんって……いつ寝てるんだ」
「……たぶん、寝てても、寝てない」
「え?」
「夢のなかでも、誰かを守ってるんじゃないか、あいつは」
源田は少し黙ってから、味噌を入れすぎたことに気づいて舌を出した。
「それって、疲れるだろうな……」
「疲れるよ。だからたまに、何も言わずに焚き火の前にいたら、そっとしといてやれ」
「……わかった」
※
夜、火のそばに座っていた静の前に、水嶋が酒の入った器を置いた。
「飲めるか?」
「少しなら」
ふたりは並んで火を見た。
言葉はなかった。
けれど、沈黙の中には、たしかな“許し”があった。
「おまえ、さ」
水嶋がぽつりと言った。
「この先、何人斬ることになると思う?」
「わかりません」
「そっか。……俺も、わからない。怖いよな」
「ええ、怖いです」
「でも、おまえが“怖い”って言ってくれると、なんか安心する」
静は、微かに笑った。
その笑みは、夜の火よりも、あたたかかった。
※
その夜、風向きが変わった。
遠くから、火薬と煙の匂いが届いた。
敵軍の大規模な移動が始まったという情報が、夜明けとともに伝えられた。
戦が、動き出す。
静は、自ら剣を研いだ。
その刃に、自分の顔が映る。
映った顔は、たしかに“人”のものだった。



