名もなき剣に、雪が降る

第六話「その谷には、言葉の届かぬ影がいた」

 霧の奥、踏み慣れた道はなかった。
 東の谷は地図に記されているよりも険しく、入り組んだ岩の裂け目や、倒木に塞がれた獣道ばかりが続いていた。
 静と矢野のふたりは、言葉少なに斜面を下っていく。
 草を踏む音と、鞘の揺れる微かな金属音だけが、沈黙を縫い合わせていた。
「……人の通った痕跡はないな」
 矢野が言った。足元の泥を指で撫でる。
「昨夜の雨で流されたか、もとより誰も歩いていないか……」
 静の声は淡々としていた。
「おまえ、こういう任務、嫌いじゃないだろ」
「ええ。敵と出会わなければ、自然の中を歩くのは、悪くありません」
「斬らずに済むからか?」
「……斬らずに済む道があるなら、それが最善です」
 それは信条ではなかった。
 祈りでもなかった。
 ただ静かに、彼の中にある“確かさ”だった。
     ※
 谷の奥は、さらに深く、日が差さなかった。
 水が岩に滲み、木々の根が絡まり、苔が厚く広がる湿地へと地形は変わっていく。
 小川を渡る丸太の橋が腐りかけていた。
「……誰かが設置したものだな」
 矢野が橋脚を蹴って確かめる。
「だいぶ古い。軍のものではありません」
「民家の跡か?」
「廃村があると聞きました。昔、疫病が流行ったとか……」
 ふたりは互いに言葉を途切れさせた。
 谷の空気が、変わっていた。
 風が止まり、音がなくなった。
「……何かがいる」
 静がそう言ったとき、矢野も同時に剣に手をかけていた。
 それは“気配”というより、“存在の痕”だった。
 この場を、誰かが通った。
 それだけで、ふたりは即座に察知していた。
     ※
 やがて、木立を抜けた先に、朽ちた小屋が見えた。
 瓦は落ち、壁は裂け、柱には斧の跡のような傷があった。
 かつて誰かが暮らしていた場所。
 いまはもう、名も記録も失われた、ただの“痕”。
 ふたりは小屋に近づく前に、辺りをひと巡りして確認をとった。
「……火は、使われた形跡なし。だが、足跡がある」
 矢野が地面を指さす。
「昨日のものですね。三人……いや、四人。軽装、靴のすり減り方からして、流浪の民か……兵の可能性もあります」
「どうする?」
「中を見て、痕跡だけ記録して戻りましょう。深入りは避けた方が良い」
 静がそう言いかけたそのとき、小屋の奥から乾いた枝が折れる音がした。
 矢野が剣を抜く。
 静は一歩、前へ出た。
 布の揺れと同時に、誰かが飛び出してきた。
 それは子どもだった。
 十にも満たない顔――髪は泥にまみれ、裸足のまま、こちらへ駆け出してきた。
「待て!」
 矢野が叫んだ。
 次の瞬間、小屋の影から三つの影が躍り出る。
 成人の男。手には粗末な鉈と、小型の狩猟用の弓。
 矢野が身を翻し、矢を弾いた。
 静は刃を抜くことなく、一歩で前に出る。
「待ってください。子どもがいます!」
 その声に、男たちは一瞬動きを止めた。
 小屋の脇で、子どもが転び、呻き声をあげていた。
「……関わるな。ここは、俺たちの土地だ」
 一人の男が低い声で言った。
「軍の者か?」
「そうです」
「なら帰れ。俺たちにとって、軍も敵も同じだ」
 敵意ではなく、疲労の色だった。
 乾いた声。血の匂いはない。
「ここで何を?」
「逃げてきただけだ。戦も、疫病も、飢えも、もうたくさんだ。……ここなら誰も来ないと思った。それだけだ」
 静は、剣を鞘に戻した。
「……子どもに、傷は?」
「ない。あいつは馬鹿で、逃げ出しただけだ。……俺たちが捕まるのが怖かったんだろう」
 男の目は、正面を見ていなかった。
 矢野が剣を下ろす。
「静、どうする」
「彼らが敵でないのなら、争う理由はありません。谷の奥に流民がいたとだけ記録して、立ち去りましょう」
「そういうわけには――」
 矢野が言いかけたとき、子どもが小さく叫んだ。
「……来る!」
 次の瞬間、谷の奥から、鈍い太鼓のような音が響いた。
 足音。
 兵のものだった。
 矢野と静は、同時に身構えた。
「追っ手か……!」
「……敵軍ではありません。味方、です。……後方部隊が、谷を掃討する計画だったと聞きました」
「おい、じゃあこいつらは……!」
 静は素早く男たちの前に立った。
「隠れてください。今、誰も死なせたくありません」
「おまえ、なにを――!」
「行ってください!」
 静の声に、男たちは一瞬の迷いののち、子どもを抱えて木立の奥へ消えた。
 霧のなかに、味方の旗が見えた。
 部隊長格の声が、谷に響く。
「確認せよ! この谷の奥に敵影ありとの報!」
「ここには敵はおりません!」
 静が、旗の前に立った。
「奥にいたのは、武装していない流民です。交戦の意思もない。今はすでに退去しました」
「本当か?」
「この目で確認しました」
 矢野が隣に立つ。
「俺も同じ報告をします。彼らは、ただ逃げてきただけだ」
 若い副官が不審げに睨んだが、上官は手を挙げて制した。
「……静、というのは、そなたか」
「はい」
「名は聞いている。今後、谷の掃討の範囲を再検討しよう」
 そう言って、部隊は谷を下っていった。
 霧が静かに戻ってくる。
     ※
 帰路、矢野がぽつりと呟いた。
「おまえ、あれが“正しい”って、言い切れるか」
「わかりません」
「俺もだ」
 ふたりは、しばらく何も言わずに歩いた。
 ただ、霧のなかで、見えなかったものの重さだけが、背にのしかかっていた。