第三話 「沈黙の輪郭」
剣を握る姿は、すでに板についていた。
名もなき少年――沖田静が、道場に現れてからまだ一月も経っていないというのに、彼の背には妙な存在感があった。
力を誇るわけでもなく、声を荒げるわけでもない。だが、ふとした瞬間に視線が彼へと吸い寄せられる。まるでそこだけ空気の密度が違うような、不自然な静けさ。
ある門下生は、それを「水の底の音」と言った。
あるいは、「生きている気配が希薄すぎる」と。
だがそれでも彼は、朝になると必ず道場に現れ、稽古を始める。誰にも何も言わず、何の指示も受けずに。
※
静が入門して十日が過ぎたころ、一つの出来事があった。
その日、門下生のうち数人が、掃除をさぼって裏庭で遊んでいた。梅雨のはざま、湿った草の上で、誰かが持ってきた駒を回していた。
「なあ、あいつ、本当に人間なのかな」
言ったのは、年少の門弟――小太郎だった。
十二かそこら、少しませた顔立ちの少年だ。
「静、ってやつ。なんか……動きとか、変だろ? 音もなく動くし、目、こっち向いてないのに背中で見てるみたいだし」
他の者たちが、なんとなく同意の空気を出す。
「斬ったこと、あるんじゃないのかな。人を」
小太郎が言った。
ざらりと空気が揺れた。
それを聞いていたのは、縁側に座っていた榎本だった。年長の門弟の一人で、読書を好み、比較的物静かな性格だった。
「言葉には気をつけた方がいいぞ、小太郎」
「だって……」
「“だって”じゃない。そういうのは、口にしないほうがいい」
榎本は静かに言ったが、その声には淡い緊張がにじんでいた。
実際、榎本自身も思っていたのだ。
静の剣には、“殺す”という所作の一歩手前のものが宿っている。
それは、無自覚なものではない。むしろ意識の奥深くで“制御されている”ような感覚だった。
静は、斬れる。
だが、斬らない。
その均衡のようなものが、周囲の者に薄い不安を与えていた。
※
榎本は、ふと静のことを観察するようになった。
彼は決して、強くはなかった。少なくとも、筋力では劣っていた。力負けもした。反応も、特段速いわけではない。
それでも、負けない。
竹刀を交えても、打たれず、外し、消える。
攻めようとした瞬間に気が削がれる。
それはまるで、目の前から「そこにいた存在」が霞のように消えていく感覚。
剣というより、“空間の使い方”そのものが異質だった。
榎本はそれを一冊の本にたとえた。
――何も書かれていないのに、意味だけが滲み出てくる書物。
静は、そういう存在だった。
※
夜、宗兵衛の部屋にて。
榎本は静についての考察を、ぽつりぽつりと話した。
宗兵衛は黙って聞いていた。
盃に酒を注ぎ、口に含む。
「……あの子の目を、どう見た?」
宗兵衛の問いに、榎本は少し迷った末、答えた。
「濡れた石のようだと思いました。冷たくて、でも生きている」
「ふむ」
「何も映っていないようで、全てを見ているような……」
宗兵衛はまた、酒を口に含んだ。
庭では虫の音が小さく響いていた。
「“生きているようで、生きていない目”というのは、戦場でよく見る」
榎本が少し目を見開いた。
「死に慣れた兵か、あるいは死ねずに残った者か。生死の淵を越えた者が、時に持つ目だ」
「では、静は……」
「わからん。ただ――斬り方を、知っている者の構えだとは思う」
その言葉に、榎本は背筋に微かな戦慄を覚えた。
「斬りたくて、剣を振るう者ではない」
宗兵衛は続けた。
「それでも、必要があれば迷わず振るえる者だ」
それは、かつて数多の剣士を見てきた宗兵衛だからこそ言える、厳然たる言葉だった。
※
翌朝。
静は、誰よりも早く道場に来ていた。
稽古場の隅に正座し、目を閉じている。
眠っているようでもなく、集中しているようでもない。
ただ、そこに“在る”という静けさ。
榎本は、そっと近づいた。
声をかけようかと思ったが、やめた。
代わりに、傍らに立ち、同じように正座をして目を閉じた。
風が吹いた。
朝の光が、柱の陰をゆっくりと移動させる。
二人の影が、徐々に重なっていく。
「……何か、考えていたのか?」
しばらくして、榎本が問うた。
静は、少しだけ目を開けた。
「……わかりません。ただ、何かを思い出す気がして」
「夢でも?」
「夢なのか、昔のことなのか……。ときどき、刃の音がします。誰かの叫びも。でも、誰が斬ったのか、何を守ったのか……わかりません」
榎本は言葉を失った。
そしてようやく、この少年が抱えている“空白”の意味を、少しだけ理解した気がした。
静は、思い出したくないのではない。
“思い出す資格がない”と、自らを裁いているように見えた。
※
その日から、榎本は静と稽古をともにするようになった。
誰よりも多くの時間を過ごし、言葉を交わすようになった。
だが、静は多くを語らなかった。
聞かれたことには答えたが、自らを語ることはなかった。
感情の起伏もほとんど見られなかった。
それでも、榎本は彼の“輪郭”を知ろうとした。
沈黙のなかにあるもの。
言葉にならない記憶の痕跡。
それらは確かに、“静”という存在の内側で息づいていた。
彼は、何者なのか。
どこから来たのか。
なぜ、この道場に現れたのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
けれど、榎本は信じていた。
――いずれ、その剣が語り始めると。
剣を握る姿は、すでに板についていた。
名もなき少年――沖田静が、道場に現れてからまだ一月も経っていないというのに、彼の背には妙な存在感があった。
力を誇るわけでもなく、声を荒げるわけでもない。だが、ふとした瞬間に視線が彼へと吸い寄せられる。まるでそこだけ空気の密度が違うような、不自然な静けさ。
ある門下生は、それを「水の底の音」と言った。
あるいは、「生きている気配が希薄すぎる」と。
だがそれでも彼は、朝になると必ず道場に現れ、稽古を始める。誰にも何も言わず、何の指示も受けずに。
※
静が入門して十日が過ぎたころ、一つの出来事があった。
その日、門下生のうち数人が、掃除をさぼって裏庭で遊んでいた。梅雨のはざま、湿った草の上で、誰かが持ってきた駒を回していた。
「なあ、あいつ、本当に人間なのかな」
言ったのは、年少の門弟――小太郎だった。
十二かそこら、少しませた顔立ちの少年だ。
「静、ってやつ。なんか……動きとか、変だろ? 音もなく動くし、目、こっち向いてないのに背中で見てるみたいだし」
他の者たちが、なんとなく同意の空気を出す。
「斬ったこと、あるんじゃないのかな。人を」
小太郎が言った。
ざらりと空気が揺れた。
それを聞いていたのは、縁側に座っていた榎本だった。年長の門弟の一人で、読書を好み、比較的物静かな性格だった。
「言葉には気をつけた方がいいぞ、小太郎」
「だって……」
「“だって”じゃない。そういうのは、口にしないほうがいい」
榎本は静かに言ったが、その声には淡い緊張がにじんでいた。
実際、榎本自身も思っていたのだ。
静の剣には、“殺す”という所作の一歩手前のものが宿っている。
それは、無自覚なものではない。むしろ意識の奥深くで“制御されている”ような感覚だった。
静は、斬れる。
だが、斬らない。
その均衡のようなものが、周囲の者に薄い不安を与えていた。
※
榎本は、ふと静のことを観察するようになった。
彼は決して、強くはなかった。少なくとも、筋力では劣っていた。力負けもした。反応も、特段速いわけではない。
それでも、負けない。
竹刀を交えても、打たれず、外し、消える。
攻めようとした瞬間に気が削がれる。
それはまるで、目の前から「そこにいた存在」が霞のように消えていく感覚。
剣というより、“空間の使い方”そのものが異質だった。
榎本はそれを一冊の本にたとえた。
――何も書かれていないのに、意味だけが滲み出てくる書物。
静は、そういう存在だった。
※
夜、宗兵衛の部屋にて。
榎本は静についての考察を、ぽつりぽつりと話した。
宗兵衛は黙って聞いていた。
盃に酒を注ぎ、口に含む。
「……あの子の目を、どう見た?」
宗兵衛の問いに、榎本は少し迷った末、答えた。
「濡れた石のようだと思いました。冷たくて、でも生きている」
「ふむ」
「何も映っていないようで、全てを見ているような……」
宗兵衛はまた、酒を口に含んだ。
庭では虫の音が小さく響いていた。
「“生きているようで、生きていない目”というのは、戦場でよく見る」
榎本が少し目を見開いた。
「死に慣れた兵か、あるいは死ねずに残った者か。生死の淵を越えた者が、時に持つ目だ」
「では、静は……」
「わからん。ただ――斬り方を、知っている者の構えだとは思う」
その言葉に、榎本は背筋に微かな戦慄を覚えた。
「斬りたくて、剣を振るう者ではない」
宗兵衛は続けた。
「それでも、必要があれば迷わず振るえる者だ」
それは、かつて数多の剣士を見てきた宗兵衛だからこそ言える、厳然たる言葉だった。
※
翌朝。
静は、誰よりも早く道場に来ていた。
稽古場の隅に正座し、目を閉じている。
眠っているようでもなく、集中しているようでもない。
ただ、そこに“在る”という静けさ。
榎本は、そっと近づいた。
声をかけようかと思ったが、やめた。
代わりに、傍らに立ち、同じように正座をして目を閉じた。
風が吹いた。
朝の光が、柱の陰をゆっくりと移動させる。
二人の影が、徐々に重なっていく。
「……何か、考えていたのか?」
しばらくして、榎本が問うた。
静は、少しだけ目を開けた。
「……わかりません。ただ、何かを思い出す気がして」
「夢でも?」
「夢なのか、昔のことなのか……。ときどき、刃の音がします。誰かの叫びも。でも、誰が斬ったのか、何を守ったのか……わかりません」
榎本は言葉を失った。
そしてようやく、この少年が抱えている“空白”の意味を、少しだけ理解した気がした。
静は、思い出したくないのではない。
“思い出す資格がない”と、自らを裁いているように見えた。
※
その日から、榎本は静と稽古をともにするようになった。
誰よりも多くの時間を過ごし、言葉を交わすようになった。
だが、静は多くを語らなかった。
聞かれたことには答えたが、自らを語ることはなかった。
感情の起伏もほとんど見られなかった。
それでも、榎本は彼の“輪郭”を知ろうとした。
沈黙のなかにあるもの。
言葉にならない記憶の痕跡。
それらは確かに、“静”という存在の内側で息づいていた。
彼は、何者なのか。
どこから来たのか。
なぜ、この道場に現れたのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
けれど、榎本は信じていた。
――いずれ、その剣が語り始めると。



