名もなき剣に、雪が降る

第五話「それでも名を呼ぶ者たちへ」

 霧の朝がまた訪れた。
 谷を吹き上がる風が草を撫で、濡れた葉を揺らしている。天幕の隙間から入り込んだ冷たい空気に、浅い眠りの者たちが目を開けはじめていた。
 だが、その日の朝の空気には、いつもと異なるものが混じっていた。
 ――何かが、変わり始めていた。
     ※
「おい、今村、聞いたか? 北の哨戒隊が戻らねえって」
「……またか」
 昼前。隊の中心に立てられた天幕の外で、数人の隊士たちが集まり、低い声で話していた。
 近隣の部隊が襲撃を受けた可能性があるという知らせが、早朝の伝令で届いていた。
 この数日、静かだった戦況にわずかな波紋が走り始めていた。
「どうする? 応援に出すか?」
「本隊の動きがまだ固まってない。焦って動くと逆に潰されるぞ」
「でも、もし生き残りがいるなら……」
 静が、黙って近くを通りかかった。
 隊士たちは一瞬、会話を止めたが、静は何も言わず、ただ頭を下げて通りすぎていった。
「……なあ、やっぱさ、静さんが動けばよくね?」
 その言葉は、冗談ではなかった。
     ※
 火を囲む夕刻、今村が矢野に言った。
「……ここ数日で、隊の空気が変わってきた。いい意味でも、悪い意味でも」
「悪い意味で、か」
「ああ。なんでも静に頼るようになってきてる。まるで――」
「信仰か、神頼みみたいだと?」
 矢野の口調に、皮肉はなかった。むしろ、冷静だった。
「……俺たちは、誰かを“名前”で呼びはじめたことで、はじめて人間に戻れた気がしたんだ」
 今村の声は、どこか迷っていた。
「でも、その“名前”が、いつの間にか“神話”になっていく。剣で人を守ったあいつが、今度は剣になってしまいそうで、俺は怖いんだ」
 矢野はその言葉に、すぐには答えなかった。
 しばらく火の粉を見つめてから、ぽつりと返した。
「……それでも、呼ぶしかないんだろうな。名前を、誰かの名を。そうでもしなきゃ、人は自分を保てないから」
     ※
 その夜、静は眠れなかった。
 天幕の外に出ると、草露の匂いが強く鼻を打った。
 冷たい風が頬を撫で、火の灯らない夜空には、月がぼんやりと浮かんでいた。
 ふと、遠くで声がした。
「静さん……」
 振り向くと、源田がいた。まだ歩き方はおぼつかないが、顔色は戻っていた。
「こんな夜に、どうしましたか」
「眠れなくて……でも、それだけじゃなくて、言いたかったんです」
「言いたかった?」
「俺、静さんが怖かったんです。……あの日も、助けてもらったあとも、正直、どこかでずっと、あのときの光景が焼きついてて……」
 静は黙って聞いていた。
 源田は続けた。
「でも、それ以上に、嬉しかったんです。守ってもらえたことが。名前を呼ばれたことが。――だから、俺、もう逃げたくないです」
「……それは、とても強い言葉です」
「違うんです、俺が強いんじゃなくて……静さんが、“怖くても立ってていい”って言ってくれたから、今の俺があるんです」
 源田の目には、涙がにじんでいた。
 けれどその顔は、あの日の泣き顔とは違っていた。
「ありがとうございます。……あの日、俺を斬らずにいてくれて」
 静は、そっと頷いた。
 それは、夜の霧のなかで交わされた、たった二人だけの契約のようだった。
     ※
 数日後。
 再び、補給路の確保任務が隊に課された。
「今度は、東の谷筋だ。地形が複雑で、出入りが限られてる。敵の残党が潜んでる可能性がある」
 今村が地図を示しながら説明する。
「静、矢野、おまえたちには先発して地形の確認と索敵を頼みたい」
 矢野がすぐ頷く。
 静も、何も言わずに腰を上げた。
 今村が、少しだけ躊躇うように言った。
「……本当に、すまない。またおまえたちばかりを前に出して」
 静は、少し笑った。
「命を張る順番を、決めるのは難しいものですね。けれど、それを考えてくださっている今村さんがいるなら、僕は、前に出ることに迷いはありません」
 今村は、しばらくその言葉を噛みしめていた。
     ※
 出発の前夜、隊員たちが、そっと集まっていた。
「……静さんに、何か渡せるものってないか」
「飯盒に餅、詰めとこう。あいつ、たまに一口で済ませるから」
「矢野にもだ。あいつ、一度腹壊してる」
「無口な早坂に描かせたお守り、持たせようぜ」
 くだらないようで、真剣だった。
 それぞれの想いが、小さな品に込められていた。
 翌朝、静と矢野が出発するとき、誰もがさりげなく手を上げて見送った。
 誰も「気をつけろ」とは言わなかった。
 それは――祈りの代わりに、名を呼ぶ者たちの、無言の誓いだった。