名もなき剣に、雪が降る

第四話「名もなきものたちの灯」

 夜が明ける少し前。
 薄闇に濡れた天幕の内で、誰かが火の番をしていた。
 薪は湿っていたが、それでも細く燃えていた。
 空がまだ鈍い色のまま眠っているころ、兵たちは眠っていた。
 いびきや寝言、布の擦れる音だけが、地に染み込むように漂っている。
 その静けさを、音もなく割って入ったのは――白い装束だった。
 沖田静が、霧に濡れた足元のまま、天幕の布をくぐる。
 顔に傷はなかった。血の匂いもなかった。
 だがその沈黙は、剣より鋭く、血より濃かった。
 矢野がそのあとに続いて入ってきたとき、火の番をしていた早坂が小さく言った。
「……帰ったのか」
「ただいま戻りました」
 静はそれだけを言って、腰を下ろした。
「源田は?」
「今村さんたちがすぐ連れて戻る。動脈は逸れてた。手当てすれば、なんとかなるだろう」
 矢野がそう言って、湿った布を取り出し、顔と手の泥を拭った。
「……斬ったのか」
 問いかけは、矢野の口からではなかった。
 水嶋だった。目覚めていたのか、あるいは眠ってなどいなかったのか――わからない顔をしていた。
 沖田は、ひと呼吸置いてから、答えた。
「必要なだけ」
 その答えに、水嶋は何も言わなかった。
 だが、それ以上を問おうとはしなかった。
     ※
 源田は、左足の罠の傷と、右肩の打撲で、数日は寝たきりとなった。
 だが意識ははっきりしていて、戻ってきた夜のうちに矢野と沖田の顔を見て泣き出した。
 うわ言のように「怖かった」「死ぬかと思った」と繰り返しながらも、はっきりと、こう言った。
「静さんが……来たとき、……俺、生きてていいんだって思いました」
 それは、たしかに“命の感触”のある声だった。
     ※
 霧の深い谷での出来事は、隊内に瞬く間に広がった。
 十四人の敵兵を、単身で制した。
 それも、返り血も浴びず、傷ひとつ負わず――。
 それは、事実として語られる前に、物語になった。
「白装束の鬼神、再び」
「目も見えぬ霧の中で、敵兵がひとり、またひとりと沈んでいった」
「最後に膝をついて泣いていた新兵の手を、静さんはそっと両手で包んだらしい」
 そのどれもが脚色を含んでいた。
 だが、隊員たちはそれを否定しなかった。
 信じたかったのだ――それが“事実以上の救い”であることを。
 戦場において、名を持たぬ兵士たちは、しばしば“語り”によって自分を保つ。
 その中心に、今は静がいた。
 静は、戸惑っていた。
 焚き火のまわりで自分の話がされるたび、笑い声のなかで名前が出るたび、
 それが自分のことだとは思えなかった。
「……まるで、他人みたいですね」
 そう言った夜に、矢野が少し笑って言った。
「ま、他人だよ。おまえが守ったのは、あいつらにとっての“静さん”なんだろうさ。……おまえが思ってるより、ずっと大きなもんになっちまったな」
 静は黙ったまま、火のなかを見つめた。
 燃えていたのは木だったが、揺れていたのは、己の内だった。
     ※
 その日の昼、源田が天幕の外に出た。
 足を引きずりながら、片腕に布を巻いていたが、顔には晴れやかな色が戻っていた。
 天幕の入口で立ち止まり、隊員たちに向かって頭を下げた。
「……ありがとうございました!」
 その声に、あちこちで食事をしていた者たちが顔を上げた。
 誰かが「よう戻ったな」と笑った。
 別の者が、「おまえ、また泣くなよ」と冗談めかした。
 源田は、そのひとつひとつに、頷きながら応えていた。
 沖田は、少し離れた場所からそれを見ていた。
 名を持たないはずだった兵士に、名がつきはじめる。
 “守られた者”としてではなく、“ここにいた者”として。
 それを、静は――どこか遠くの火を見つめるように、黙って見ていた。
     ※
 夕刻、薪を組み直していた水嶋が、ぽつりと漏らした。
「なあ、矢野」
「ん?」
「静ってさ、なんでああまでして“白く”あろうとするんだろうな」
 矢野はしばらく黙ってから、布を膝に置いた。
「たぶんな、“汚れること”そのものじゃなくて、“汚れていい”って思うことが、怖いんだろうな」
「……怖い?」
「汚れて、それを許せば、人はどんどん曖昧になる。
 その“曖昧”が、きっと、あいつにとっては地獄なんだ」
「でも戦場だぜ。曖昧どころか、真っ黒だろ」
「だからこそだよ」
 矢野は言った。
「ここで自分を信じられなかったら、どこで信じるっていうんだ」
     ※
 その夜、静は夢を見た。
 霧のなか、名もなき兵たちが倒れていた。
 自分の手は血に濡れていて、剣が黒く鈍く濡れていた。
 振り返ると、火が遠くで燃えていた。
 そこに、源田がいた。
 血まみれのまま、子供のように泣いていた。
「静さん、なんで……!」
「……どうして俺たちまで、斬ったんですか!」
 静は何も言えなかった。
 そのとき、火の中から誰かが囁いた。
 ――これは、守った末の結末だ。
 ――名前を持つということは、喪失の始まりだ。
 夢のなかで、静は膝をついて嘔吐した。
 血が、喉に逆流していた。
 喉の奥で、何かが泣いていた。
 目を覚ましたとき、天幕の外に雨の音がしていた。
 霧は、また濃くなっていた。