名もなき剣に、雪が降る

第二話「雨音が名前を呼ぶ」

 火のない夜だった。
 濡れた薪はなかなか火がつかず、兵たちは各々の布に身を潜めて眠ろうとしていたが、眠りの気配はまだ薄かった。焚き火のない夜は、声のかわりに沈黙が会話をする。
 沖田静は、その夜も剣を拭っていた。
 刃の影に宿るものは、血ではなく、記憶だった。鈍色の鏡に映るものを、静はいつも見ている。それが何であるのか、誰にも話したことはなかった。
「おまえさ。そんなに毎晩剣を拭いて、飽きないのかよ」
 声をかけてきたのは、丸顔の兵士だった。名を水嶋という。年は二十一。沖田より四つ、矢野より三つ年上で、剣の腕はそこそこ。誰とでも気さくに話す性格だった。
「飽きるほど、生きていませんから」
 静は、冗談のように、そう返した。
「……それが冗談に聞こえねえのが、おまえだよ」
 水嶋は、苦笑しながら隣に腰を下ろした。
 その様子を、向こうの天幕で眠れぬまま起きていた者たちが、布越しにこっそり耳を澄ませている。
「なあ、沖田。“静”って呼んでいいか」
 火のない夜は、誰もが少しだけ素直になる。
 静は、一拍遅れてうなずいた。
「ええ、もちろん」
 それは、誰もが求めていた返答だった。
 少しずつ、彼の“名前”が、他人の舌に馴染みはじめる。
 それは、彼という存在が“鬼神”ではなく、“兵のひとり”として同じ地面に立ち始めていることを意味していた。
 ※
 この部隊は、奇妙な構成だった。
 年長の古参兵は前線で傷を負い、療養や別動隊に配属されていたこともあって、全体的に若い。
 最年少が沖田で、次が矢野。
 だが、静の振るう剣を一度見た者は、皆、自然と彼に敬意を抱いた。
 年上の者たちでさえ、「沖田さん」と口にするようになったのは、剣の強さだけではなく、その振る舞いに一種の静けさが宿っていたからだ。
 たとえば――。
「味噌、切れそうだったら言ってくださいね。多めにもらってくるので」
 ある朝、静が炊事当番の佐々木に、あたりまえのようにそう言った。
 たったそれだけのやりとりで、佐々木は夕暮れの水汲みのとき、ふとこう漏らした。
「……あの人さ、すごいのに、えらぶらないよな。なんでだろ」
 その言葉に、水嶋がぽつりと返す。
「“えらぶる”ってのはさ、自分がどこに立ってるか忘れる奴のすることなんだよ。あいつはいつも、地面見てる」
「地面?」
「ああ。――剣を抜いたあと、血が落ちた場所を、ちゃんと見る奴なんだよ。俺たちの中で、それができるの、たぶんあいつだけだ」
 ※
 静は、知らず知らずのうちに、人の輪のなかに立つようになっていた。
 囲炉裏の火に手をかざすときも、隊列を組んで歩くときも、誰かがさりげなく隣に並んでいた。
 特に、水嶋と、早坂(無口な弓兵)は、いつの間にか“近くにいる”存在になっていた。
「なあ、静。あんたさ、何が楽しくて戦なんてやってんだ?」
 唐突な問いだった。
 木陰で剣の手入れをしていた沖田は、少しだけ手を止めた。
「……楽しくて、やってるわけではありません」
「じゃあ、何のために?」
 沈黙が落ちる。
 静は、木の葉の揺れを見つめながら答えた。
「たぶん、誰かがやらないといけないことを、たまたま僕がやってるだけです」
「誰かがやらなきゃいけないこと、か……。でもさ、俺は正直、あんたがいてくれてよかったって思ってるよ。ほんと」
 水嶋の声には、飾り気がなかった。
 その飾り気のなさに、静は少しだけ微笑んだ。
「それは、ありがたいです」
 その笑みを見て、水嶋は心の奥で思った。
 ――ああ、やっと“人”になってきた。
 ※
 そのころ、隊内では誰もが口をそろえて言っていた。
「静がいれば、なんとかなる」
「沖田さんがいれば安心だ」
 戦場では不思議な“神話”が生まれる。
 だれかの勇名は、やがて人の心を縛り、拠り所になる。
 沖田静という剣士は、まさにその“安心”の象徴になりつつあった。
 それは、彼にとって、どこか居心地の悪いものでもあった。
 静は、ときおり木の根に座りながら考える。
 ――これは、“信頼”だろうか。
 それとも、“依存”だろうか。
 その境目を測れないまま、彼は“静さん”と呼ばれる日々のなかで、少しずつ心を緩めていた。
 笑った。冗談も言った。
 味噌汁の味が濃すぎると水嶋に文句を言った日もあった。
 その一瞬が、まるで“日常”だった。
 けれど――。
 その“日常”こそが、彼にとってもっとも恐ろしいものだった。
 ※
 ある雨の晩、沖田は矢野に言った。
「……僕、少しずつ、馴染んでしまってますね」
 矢野は、焚き火の灰を払ってから言った。
「悪いことか?」
「……わかりません。でも、僕は……こういう場所では、あまり馴染むべきではない気がするんです」
「なぜ?」
「だって、失うからです。……誰かは命を、失うから。――僕も含めて」
 矢野は答えなかった。
 そのとき彼の脳裏には、かつて失った顔がいくつも浮かんでいた。
 戦場で名を呼び合うということは、名を失う苦しみに繋がるということだった。
 静も、それを知っているのだ。
 だから、馴染んでしまうことに怯えている。
 それでも彼は、確実に――。
 “人の輪”のなかで、名前を呼ばれ、呼び返し、何かを手にしてしまっていた。
 笑い声、食器の音、布団の奪い合い、そして――
「静、こっち座れよ!」
「沖田さん、今夜の番、交代しましょうか?」
 それは、血ではなく、声で繋がった絆だった。
 その絆を、静は――剣で、守ろうとした。