第一話「名を呼ばれる剣」
霧が降りていた。
春を越え、夏の気配がかすかに匂う季節だったが、この土地は肌寒い朝が続いていた。朝霧の中、幾人もの若い兵士が黙々と整列し、点呼を待っていた。沈黙のなかに、焚き火の残り香と、湿った土の匂いが立ち込めている。
その部隊に、新しく二人の兵が加わった。
ひとりは、名を知られた男だった。
白装束の剣士。鬼神。神か、あるいは人かと囁かれる、奇妙な噂とともに広まった存在。
もうひとりは、槍使いの青年だった。恵まれた身体に、端整な目元。静かに、その“剣”の背後に立ち続ける、もうひとつの刃のようだった。
沖田静と、矢野蓮。
年若いふたりが、霧の中を歩いてくると、整列していた若手の兵たちが、無言でその姿を見た。
誰も、声をかけなかった。
しばらくの沈黙ののち、年嵩の隊士がぼそりと口にする。「あれが……」
語尾は、消えた。
※
「ようこそ。案内するよ」
仮設の天幕の中、ひとりの青年が、沖田と矢野を迎えた。口元に人懐こい笑みを浮かべた、明るい印象の男だった。年は二十を少し越えたあたりか。
「俺は今村。副隊長の補佐をしてるけど、まあ雑用係みたいなもん。ここ、わりと自由だからさ。変な命令が飛んできたりはしないと思う。あんたがたが噂の……えっと」
言葉を濁した。
「“白装束の”ってのは、呼ばない方がいい?」
「お好きにどうぞ」
静が穏やかに返す。
それが冗談なのか、本心なのか、今村には測れなかった。だが、穏やかで、硬質な声だった。音が剣のように鋭く、それでいて、礼節の膜で覆われているような不思議な響きをもっていた。
「じゃあ……静、って呼んでも?」
「もちろん」
ひとつ微笑むと、沖田は天幕の端の床に腰をおろした。
矢野も、何も言わずに隣に腰を下ろす。
その場の空気が、やわらかく、けれどどこか張りつめたまま変わらなかった。
※
最初の数日、誰も沖田を名前で呼ばなかった。
“あの人”
“白いの”
“剣の”
直接名を口にする者はいなかった。
沖田が話しかけても、多くの者は目を逸らした。
剣を交える様子を見た者の中には、膝を震わせる者もいた。
ただ、矢野だけは、黙ってその傍らにいた。特に話すでもなく、笑うでもなく。ふたりが話しているところを、他の兵が見た記憶はほとんどない。
だが、夕刻の食事のとき。
ある兵が、ぽつりと言った。
「静、って……それがあの人の名前、なんですか」
矢野が頷いた。
「名前で呼べばいい」
たったそれだけの言葉が、風穴を開けた。
翌朝、今村がぽつりと「おはよう、静」と言った。
沖田はふわりと微笑んで、「おはようございます」と返した。
それだけのやりとりが、沈黙に満ちていた部隊に、確かな波紋を投げかけた。
※
ある日。
小規模な斥候戦で、敵の伏兵と出くわした。部隊が包囲されかけたそのとき、沖田は前に出た。
ひとりで、四人を斬り伏せた。
血は、ひとしずくも肌に付着しなかった。
剣は、まるで風そのもののようだった。
矢野は背中を預け、後ろの部隊の盾となるよう動いた。
誰かが叫んだ。
「静さん、戻ってください!」
静かに、沖田は振り返った。
その目は、澄んでいた。敵を斬った者の目ではなかった。
それでも、矢野にはわかっていた。
その“無色の瞳”の底に、なにかがあることを。
何度目かの夜、矢野は火の前でぽつりと言った。
「おまえ、あまり怒らないよな」
「そうですか?」
「殺しても、怒らない。泣かない。……なにを斬ってるんだ?」
沖田は、しばらく沈黙した。
そして、ただこう返した。
「必要なものを、です」
※
名前を呼ぶ者が、少しずつ増えていった。
年上の隊士が敬語を外す日も来た。
冗談を言う者もいた。
食事のとき、黙って味噌を差し出してくれる者もいた。
沖田も、冗談を返した。
少しだけ、表情がやわらかくなった。
だが、夜。
ひとりで剣の手入れをする沖田の姿は、どこか別の空気を纏っていた。
矢野はその夜、ぽつりと尋ねた。
「静。……なあ、今でも、恐いか?」
矢野の声は火の爆ぜる音にかき消されそうなほど低かった。問いかけの形はしていたが、その声音には、返答を期待する色はなかった。むしろ、それはもう何度も繰り返された自問のように思えた。
沖田は剣を拭う手を止めなかった。布の上に伝う油が、月光のわずかな照り返しを受けて、艶を帯びた。
「恐怖は……道具です。鈍れば死にます。研ぎすぎれば、心が裂けます」
矢野が火越しに微かに息を吐いた。
「まるで剣みたいだな」
「ええ。恐怖は剣です。だから、正しく持たなければなりません」
その声は、静かだった。けれどどこか、細く張られた糸のように、緊張感を孕んでいた。
「……なあ」
矢野が、火をじっと見つめながら言った。
「おまえが“必要なもの”だけを斬ってるって言ったとき、俺は、正直、信じたくなかった」
沖田は手を止め、顔を上げた。
「必要かどうかなんて、戦場で誰が決められるんだ。味方だって敵だって、皆、何かを背負ってる。生きる理由がある」
その言葉に、沖田は少しだけ目を伏せた。
「……それでも、決めなければならないときがあります」
「そうだな」
矢野は口元に笑みとも溜息ともつかぬものを浮かべた。
「だから、おまえが生き残ってる。俺もだ。……でも、たまに思うんだ。こうして火を囲ってると、全部、夢だったらいいのにって」
静は剣を鞘に収めた。
「夢なら、いいですね」
その言葉は、やさしく、けれど深く沈んでいた。
ふたりのあいだに沈黙が降りた。その静けさは、たしかに安らぎに似ていたが、どこかでいつも、崩れる予感を孕んでいた。戦場にあるどんな沈黙も、いつか終わる。終わらせられる。
※
ある雨の朝、今村が小走りに天幕へ入ってきた。
「伝令だ。……今日、前哨陣地の偵察に出る。五人、選ばれた。静、おまえもだ。矢野も」
静と矢野が目を合わせるまでもなく、立ち上がった。
「他は?」
今村は指を折るようにして数えた。
「水嶋、佐々木、そして……源田」
名を呼ばれた三人は若かった。水嶋は二十一、佐々木は十九、そして源田はまだ十八。新兵に毛が生えた程度の少年だった。
矢野がわずかに眉を寄せた。
「随分と若い顔ぶれだな」
「若いって……それでも、お前ら”二人”よりは年長だろう。それに、ベテラン組は昨夜の警備明けで休みだ。悪いが、任せる」
矢野はひとつだけため息をつき、肩を回した。
「わかった。……静、どうする?」
「必要な距離まで進んで、必要な情報を得て、必要なだけ生きて帰ります」
即答だった。
「相変わらず、合理主義者だな」
矢野の笑みに、沖田もまた微かに口元を緩めた。
※
前哨陣地は、浅い谷の向こうにあった。馬で行くには音が響きすぎ、歩いて進むには少しばかり距離がある。
ふたりを先頭に、五人は湿った土を踏みしめながら、慎重に進んだ。木立が濡れ、葉が滴を落としていた。空気が重い。空はまだ朝なのに、どこか夜の名残のような鈍い色をしていた。
「……ねえ、あの沖田さんって、どんな人なんですか」
背後で源田が小さく囁いた。誰にともなく投げた問いだった。
「人間だよ」
佐々木がぼそりと返した。
「人間?」
「それ以外、なにがある」
沖田は前を向いたまま、なにも言わなかった。矢野もまた黙っていた。
「でもさ、なんか違うじゃん。剣が……ちがう。なんか、あれだけ斬ってるのに、血がつかないって、本当なの?」
「つかないんじゃなくて、つけないんだ」
その声は、矢野のものだった。
源田が驚いたように声を呑む。
「……なにそれ。どうやってそんなこと……」
「俺にもわからない。ただ、あいつは、そうしてる。そうするって決めてる。それだけだ」
沖田の背中は、揺らがなかった。
※
斥候の任務は、滞りなく進んでいた。
小高い丘を越え、敵の補給路の様子を確かめる。戦の前に、もっとも重要な“確認”だった。
だが。
「……足音」
沖田が、ぴたりと動きを止めた。
「六人。こちらの位置を把握していない。距離、百五十」
矢野がすぐに佐々木へ合図を送った。
「伏せろ。源田、水嶋さん、こっちへ」
風が、笹を揺らして通り抜けた。遠く、笑い声が聞こえた。
「敵兵、巡回ではない。軽装、弓兵中心。先遣隊の可能性あり」
沖田の分析は、驚くほど速く、精緻だった。新兵たちは誰も声を上げられなかった。まるで別の空気を吸っているように、彼の言葉は重たく、鮮やかだった。
「どうする?」
矢野の問いに、沖田は即座に答えた。
「殺さずに、退かせます」
「一人で?」
「はい」
そう言って、沖田は剣に手を添えた。
「源田さん」
名を呼ばれて、源田がびくりと身体を強ばらせる。
「あなたは、僕が戻るまで、決して剣を抜かないでください。……これは命令です」
「で、でも……」
「剣を持つのは、誰かを殺すためではない。誰かを斬らせないために、あなたはその場にいてください」
沖田はそう言い残し、霧の中へ溶けていった。
※
静の剣は、まるで霧を切り分けるようだった。
敵兵の間にひとたび入ると、声が、叫びが、途切れた。だが、誰も死ななかった。
斬り伏せられた者は皆、剣を折られ、手を傷め、肩を外された。
――命は、落ちなかった。
それは、戦場において奇跡に近いことだった。
「……な、なんだ、あいつ……!」
「おい、逃げろ、あれは人じゃねえ……!」
敵兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
沖田は、刀を鞘に収めると、静かに霧の向こうへ戻ってきた。
「終わりました」
ただそれだけを告げて、黙って地面に座った。
※
帰還の道すがら、源田がぽつりと呟いた。
「俺……俺、あんなの、見たことない。だって、ひとりも殺してないのに……全員、倒して……」
誰も返事をしなかった。
矢野が、静の背を見ながら、低く言った。
「俺も見たことないよ。……でも、ずっとそばにいても、あいつの本当の顔は、たぶん、まだ見たことがない」
※
部隊に戻った夜、今村が言った。
「おかえり、静」
静は、少し笑って「ただいま」と返した。
そのやりとりが、天幕の中を、やさしく震わせた。
名前を呼ぶ者が、またひとり、増えた。
霧が降りていた。
春を越え、夏の気配がかすかに匂う季節だったが、この土地は肌寒い朝が続いていた。朝霧の中、幾人もの若い兵士が黙々と整列し、点呼を待っていた。沈黙のなかに、焚き火の残り香と、湿った土の匂いが立ち込めている。
その部隊に、新しく二人の兵が加わった。
ひとりは、名を知られた男だった。
白装束の剣士。鬼神。神か、あるいは人かと囁かれる、奇妙な噂とともに広まった存在。
もうひとりは、槍使いの青年だった。恵まれた身体に、端整な目元。静かに、その“剣”の背後に立ち続ける、もうひとつの刃のようだった。
沖田静と、矢野蓮。
年若いふたりが、霧の中を歩いてくると、整列していた若手の兵たちが、無言でその姿を見た。
誰も、声をかけなかった。
しばらくの沈黙ののち、年嵩の隊士がぼそりと口にする。「あれが……」
語尾は、消えた。
※
「ようこそ。案内するよ」
仮設の天幕の中、ひとりの青年が、沖田と矢野を迎えた。口元に人懐こい笑みを浮かべた、明るい印象の男だった。年は二十を少し越えたあたりか。
「俺は今村。副隊長の補佐をしてるけど、まあ雑用係みたいなもん。ここ、わりと自由だからさ。変な命令が飛んできたりはしないと思う。あんたがたが噂の……えっと」
言葉を濁した。
「“白装束の”ってのは、呼ばない方がいい?」
「お好きにどうぞ」
静が穏やかに返す。
それが冗談なのか、本心なのか、今村には測れなかった。だが、穏やかで、硬質な声だった。音が剣のように鋭く、それでいて、礼節の膜で覆われているような不思議な響きをもっていた。
「じゃあ……静、って呼んでも?」
「もちろん」
ひとつ微笑むと、沖田は天幕の端の床に腰をおろした。
矢野も、何も言わずに隣に腰を下ろす。
その場の空気が、やわらかく、けれどどこか張りつめたまま変わらなかった。
※
最初の数日、誰も沖田を名前で呼ばなかった。
“あの人”
“白いの”
“剣の”
直接名を口にする者はいなかった。
沖田が話しかけても、多くの者は目を逸らした。
剣を交える様子を見た者の中には、膝を震わせる者もいた。
ただ、矢野だけは、黙ってその傍らにいた。特に話すでもなく、笑うでもなく。ふたりが話しているところを、他の兵が見た記憶はほとんどない。
だが、夕刻の食事のとき。
ある兵が、ぽつりと言った。
「静、って……それがあの人の名前、なんですか」
矢野が頷いた。
「名前で呼べばいい」
たったそれだけの言葉が、風穴を開けた。
翌朝、今村がぽつりと「おはよう、静」と言った。
沖田はふわりと微笑んで、「おはようございます」と返した。
それだけのやりとりが、沈黙に満ちていた部隊に、確かな波紋を投げかけた。
※
ある日。
小規模な斥候戦で、敵の伏兵と出くわした。部隊が包囲されかけたそのとき、沖田は前に出た。
ひとりで、四人を斬り伏せた。
血は、ひとしずくも肌に付着しなかった。
剣は、まるで風そのもののようだった。
矢野は背中を預け、後ろの部隊の盾となるよう動いた。
誰かが叫んだ。
「静さん、戻ってください!」
静かに、沖田は振り返った。
その目は、澄んでいた。敵を斬った者の目ではなかった。
それでも、矢野にはわかっていた。
その“無色の瞳”の底に、なにかがあることを。
何度目かの夜、矢野は火の前でぽつりと言った。
「おまえ、あまり怒らないよな」
「そうですか?」
「殺しても、怒らない。泣かない。……なにを斬ってるんだ?」
沖田は、しばらく沈黙した。
そして、ただこう返した。
「必要なものを、です」
※
名前を呼ぶ者が、少しずつ増えていった。
年上の隊士が敬語を外す日も来た。
冗談を言う者もいた。
食事のとき、黙って味噌を差し出してくれる者もいた。
沖田も、冗談を返した。
少しだけ、表情がやわらかくなった。
だが、夜。
ひとりで剣の手入れをする沖田の姿は、どこか別の空気を纏っていた。
矢野はその夜、ぽつりと尋ねた。
「静。……なあ、今でも、恐いか?」
矢野の声は火の爆ぜる音にかき消されそうなほど低かった。問いかけの形はしていたが、その声音には、返答を期待する色はなかった。むしろ、それはもう何度も繰り返された自問のように思えた。
沖田は剣を拭う手を止めなかった。布の上に伝う油が、月光のわずかな照り返しを受けて、艶を帯びた。
「恐怖は……道具です。鈍れば死にます。研ぎすぎれば、心が裂けます」
矢野が火越しに微かに息を吐いた。
「まるで剣みたいだな」
「ええ。恐怖は剣です。だから、正しく持たなければなりません」
その声は、静かだった。けれどどこか、細く張られた糸のように、緊張感を孕んでいた。
「……なあ」
矢野が、火をじっと見つめながら言った。
「おまえが“必要なもの”だけを斬ってるって言ったとき、俺は、正直、信じたくなかった」
沖田は手を止め、顔を上げた。
「必要かどうかなんて、戦場で誰が決められるんだ。味方だって敵だって、皆、何かを背負ってる。生きる理由がある」
その言葉に、沖田は少しだけ目を伏せた。
「……それでも、決めなければならないときがあります」
「そうだな」
矢野は口元に笑みとも溜息ともつかぬものを浮かべた。
「だから、おまえが生き残ってる。俺もだ。……でも、たまに思うんだ。こうして火を囲ってると、全部、夢だったらいいのにって」
静は剣を鞘に収めた。
「夢なら、いいですね」
その言葉は、やさしく、けれど深く沈んでいた。
ふたりのあいだに沈黙が降りた。その静けさは、たしかに安らぎに似ていたが、どこかでいつも、崩れる予感を孕んでいた。戦場にあるどんな沈黙も、いつか終わる。終わらせられる。
※
ある雨の朝、今村が小走りに天幕へ入ってきた。
「伝令だ。……今日、前哨陣地の偵察に出る。五人、選ばれた。静、おまえもだ。矢野も」
静と矢野が目を合わせるまでもなく、立ち上がった。
「他は?」
今村は指を折るようにして数えた。
「水嶋、佐々木、そして……源田」
名を呼ばれた三人は若かった。水嶋は二十一、佐々木は十九、そして源田はまだ十八。新兵に毛が生えた程度の少年だった。
矢野がわずかに眉を寄せた。
「随分と若い顔ぶれだな」
「若いって……それでも、お前ら”二人”よりは年長だろう。それに、ベテラン組は昨夜の警備明けで休みだ。悪いが、任せる」
矢野はひとつだけため息をつき、肩を回した。
「わかった。……静、どうする?」
「必要な距離まで進んで、必要な情報を得て、必要なだけ生きて帰ります」
即答だった。
「相変わらず、合理主義者だな」
矢野の笑みに、沖田もまた微かに口元を緩めた。
※
前哨陣地は、浅い谷の向こうにあった。馬で行くには音が響きすぎ、歩いて進むには少しばかり距離がある。
ふたりを先頭に、五人は湿った土を踏みしめながら、慎重に進んだ。木立が濡れ、葉が滴を落としていた。空気が重い。空はまだ朝なのに、どこか夜の名残のような鈍い色をしていた。
「……ねえ、あの沖田さんって、どんな人なんですか」
背後で源田が小さく囁いた。誰にともなく投げた問いだった。
「人間だよ」
佐々木がぼそりと返した。
「人間?」
「それ以外、なにがある」
沖田は前を向いたまま、なにも言わなかった。矢野もまた黙っていた。
「でもさ、なんか違うじゃん。剣が……ちがう。なんか、あれだけ斬ってるのに、血がつかないって、本当なの?」
「つかないんじゃなくて、つけないんだ」
その声は、矢野のものだった。
源田が驚いたように声を呑む。
「……なにそれ。どうやってそんなこと……」
「俺にもわからない。ただ、あいつは、そうしてる。そうするって決めてる。それだけだ」
沖田の背中は、揺らがなかった。
※
斥候の任務は、滞りなく進んでいた。
小高い丘を越え、敵の補給路の様子を確かめる。戦の前に、もっとも重要な“確認”だった。
だが。
「……足音」
沖田が、ぴたりと動きを止めた。
「六人。こちらの位置を把握していない。距離、百五十」
矢野がすぐに佐々木へ合図を送った。
「伏せろ。源田、水嶋さん、こっちへ」
風が、笹を揺らして通り抜けた。遠く、笑い声が聞こえた。
「敵兵、巡回ではない。軽装、弓兵中心。先遣隊の可能性あり」
沖田の分析は、驚くほど速く、精緻だった。新兵たちは誰も声を上げられなかった。まるで別の空気を吸っているように、彼の言葉は重たく、鮮やかだった。
「どうする?」
矢野の問いに、沖田は即座に答えた。
「殺さずに、退かせます」
「一人で?」
「はい」
そう言って、沖田は剣に手を添えた。
「源田さん」
名を呼ばれて、源田がびくりと身体を強ばらせる。
「あなたは、僕が戻るまで、決して剣を抜かないでください。……これは命令です」
「で、でも……」
「剣を持つのは、誰かを殺すためではない。誰かを斬らせないために、あなたはその場にいてください」
沖田はそう言い残し、霧の中へ溶けていった。
※
静の剣は、まるで霧を切り分けるようだった。
敵兵の間にひとたび入ると、声が、叫びが、途切れた。だが、誰も死ななかった。
斬り伏せられた者は皆、剣を折られ、手を傷め、肩を外された。
――命は、落ちなかった。
それは、戦場において奇跡に近いことだった。
「……な、なんだ、あいつ……!」
「おい、逃げろ、あれは人じゃねえ……!」
敵兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
沖田は、刀を鞘に収めると、静かに霧の向こうへ戻ってきた。
「終わりました」
ただそれだけを告げて、黙って地面に座った。
※
帰還の道すがら、源田がぽつりと呟いた。
「俺……俺、あんなの、見たことない。だって、ひとりも殺してないのに……全員、倒して……」
誰も返事をしなかった。
矢野が、静の背を見ながら、低く言った。
「俺も見たことないよ。……でも、ずっとそばにいても、あいつの本当の顔は、たぶん、まだ見たことがない」
※
部隊に戻った夜、今村が言った。
「おかえり、静」
静は、少し笑って「ただいま」と返した。
そのやりとりが、天幕の中を、やさしく震わせた。
名前を呼ぶ者が、またひとり、増えた。



