名もなき剣に、雪が降る

第七話「夜の静寂、遠い光」

 夜が深くなっていた。
 幕営の帳の下、焚き火はとうに熄え、わずかに炭の匂いが残っている。草いきれと焦げた布地のにおい。血の気配の混じる土の臭いが、眠ることをためらわせた。
 沖田静は、天幕の中でひとり目を覚ましていた。
 枕元の布に水滴のようなものがあることに気づいたが、汗か涙かはわからなかった。夜気が思いのほか冷たく、薄手の軍衣の上から静かに背筋を這っていく。
 外には何の音もなかった。
 隣の天幕では、兵たちが静かに寝息を立てているはずだった。いや、もしかすると、誰かが同じように目覚めて、この沈黙に耳を澄ませているかもしれない。だが、誰もそれを言葉にすることはない。この戦の野では、「夜中に目が覚めた」などということすら、命に関わる情報である。
(今夜は……眠れそうにありませんね)
 小さく息を吐く。
 その呼気が胸の奥に染みこんでくるようで、思わず目を閉じた。闇の中に、ふと、自分でも意図せぬままに浮かび上がってきたものがあった。
 ――未来のこと、だった。
 それはまるで、夢の切れ端のように唐突だった。
 これまで、未来というものを想像したことはなかった。死が先にある戦場で、終わりのあとを思い描くことは、傲慢であり、ある種の“裏切り”でもあると思っていた。
 どこかで、それを自分に禁じてきたのかもしれない。
 けれど今夜は、なぜかそれが禁じられた思考に思えなかった。
(もし……戦が終わったら)
 それは、あまりに遠い仮定だった。
 だがその仮定は、静かに、確かに、心の奥へと忍び込んできた。
(僕は、どこに行くんでしょうか)
 戦が終わった世界に、はたして自分という存在があるのだろうか。
 戦を剥がしたあとに残るものが、“沖田静”という人間にあるのだろうか。
 誰かの名を呼ぶ声も、誰かに呼ばれる声も、すべてはこの戦の中で生まれては消えていった。
 未来に手を伸ばした先に、自分の影がないことを、静は直感していた。
 だが、それでも――。
(……誰かが、生き延びてくれるのなら)
 その思いだけは、濁らず胸の奥にあった。
 矢野が、槍の若者が、あの負傷した兵士たちが、生きていてくれるのなら、それでいいと、静は思っていた。
 言葉にすれば簡単すぎるが、それは、生を選び取れない者だけが抱く願いだった。
(生きて、戦のあとの世界にいてくれるのなら)
 それだけで、未来というものは、じゅうぶんに価値を持ちうる。
 自分がそこにいなくても、――いや、自分がいないからこそ、彼らの未来は、より確かなものになるのだと。
     ※
 ふと、天幕の布が微かに揺れた。
 誰かが近くを通ったのか、それとも風が通ったのか。静はそっと身体を起こし、敷布の端に手を置いた。
 夜の風が、遠くで草を揺らしていた。
 その音は、かつて聴いた夏の蝉の声にも似て、どこか懐かしい響きを持っていた。
 あのとき――
 道場の縁側で、夜風を浴びながら、遠くを見ていた兄弟子の後ろ姿。
 誰もいない廊下で、師範が黙って立っていた日の気配。
 道場の床を拭いていたあの人の、ぬるんだ手の感触。
 それらが一斉に蘇ってきて、静の胸をひたひたと満たしていく。
 記憶というものは、ある瞬間、なだれのように押し寄せる。
(僕は、たぶん――)
 生きて帰らないだろうと、心のどこかでは思っていた。
 だが今夜だけは、その予感の影に身を潜ませながら、ほんの少しだけ、未来という幻を見せてもらってもいいのではないか――そんなふうに思えた。
 静は、膝を抱えて、天幕の片隅に身を寄せた。
 息をする音が、自分にしか聴こえないことが、不思議だった。
 この夜、誰とも言葉を交わしていないのに、心がやけにざわついていた。
 不意に、呟いた。
「……どうして、こんな夜に」
 その声は、宙に吸い込まれていった。
     ※
 朝が近づく。
 空はまだ墨色のままだったが、東の端がごくわずかにほつれていた。
 夜の帳がほどける前の、ほんの一瞬。
 世界が完全に沈黙する直前、沖田はひとつだけ、願うように目を閉じた。
 ――どうか、この命が、誰かの明日につながりますように。
 
 そして、静かに目を開いた。
 その瞳の奥には、ひとつの約束が宿っていた。
 口には出さずとも、誰に伝えることもなくとも、あの夜、彼は確かに“生きて戦のあとを見たい”と、そう思ったのだ。
 それが、彼がはじめて考えた“未来のこと”だった。