名もなき剣に、雪が降る

第六話「そして剣は、風に還る」

 白い霧が、朝の野を覆っていた。
 濃く、重く、吐息よりも冷たいその霧は、かつての戦場の血の気配を覆い隠し、そこに刻まれた叫び声や足跡をすっかり飲み込んでいた。
 その中心に、ひとりの男がいた。
 沖田静――白装束の剣士。
 味方からは神格化され、敵からは「斬らずに討つ鬼神」と呼ばれた男。
 けれど、その肩に羽織られた布は湿気を含み、剣を帯びた腰の影は、夜明けとともに揺れていた。
     ※
 あの戦いのあと、いくつもの噂が流れた。
 斬られずに退いた敵兵の話。
 味方の傷ついた兵をかばい、たった一人で突撃してきた白い影の伝説。
 すれ違いざま、誰ひとり傷を負わせずに四十人を退けたという、戦場ではありえぬ奇跡。
 その名は、もはや“剣士”というより、風の噂に乗った“異形”だった。
 敵の捕虜が語った。
「奴は、斬る前に見る。目を、深く深く覗き込むんだ。……魂の奥に、触れるみたいに」
「それでも、おれは斬られなかった。あの目を見て震えたけど……死ななかった。あれは、本当に“人間”だったのか?」
 彼らは、命を奪われなかったことに感謝しながらも、心に剣を残されていた。
 静の剣は、殺さない。
 けれど、それ以上に、決して忘れられないものを刻んでいた。
     ※
「……どうしてもさ。あいつを見ると、背筋が伸びる」
 矢野がそう言ったのは、野営地の片隅だった。
 いつものように、彼は少し煙草の火を借りに来て、俺の隣に座った。
 視線の先には、焚き火から外れて木立の間に立つ静の背中がある。
「信頼してる。背中を預けられるって、思ってる。でも……同時に、距離を置いてしまう自分がいる」
 俺は何も言わなかった。
 矢野の声は、答えを求めていない。
「斬らないって、すごいことだ。生きてる限り、そいつはまた刃を持つかもしれない。それでも止めたって、あいつは――」
 矢野の喉が、ふいに震えた。
 言葉にならなかった。
「……“おまえは誰だ”って思うんだ。時々。何でそんなに……全部抱えられる?」
 静の背中は、ゆっくりとこちらを向いた。
 だが、こちらには気づいていないようだった。
 その顔はただ、夜明け前の霧を見つめていた。
     ※
 数日後、敵地を抜けた我々は、一時的な駐屯を命じられた。
 静は、普段よりもさらに静かだった。
 皆が冗談を交わす夜も、焚き火を囲む輪に加わらず、遠巻きにその笑い声を聞いていた。
 それでも、誰も彼を咎めなかった。
 彼は、そこに「いてくれる」だけで十分だった。
 誰かがそっと呟いた。
「あの人がいれば……きっと、死なない」
第六話「そして剣は、風に還る」

 その言葉が、周囲に安心ではなく、奇妙な緊張をもたらすことに、本人だけが気づいていないようだった。
     ※
 夜中、矢野はふいに目を覚ました。
 静の姿が見えなかった。
 寝台を出て外に出ると、霧の残る野辺に、白い影が立っていた。
「……静」
 名を呼ぶと、彼は振り返った。
「……眠れなくて」
 それだけ言って、微笑んだ。
「ここ、夜でも風が通ります。……少し寒いですね」
「風邪ひくぞ」
 矢野はそう言って、彼の隣に立った。
 月が雲の切れ間から顔を覗かせる。
 その光のなかで、静の顔は、まるで少年のように見えた。
「ねえ、矢野さん」
「なんだ」
「僕は……本当に、人間に見えますか」
 その声は、風の中でかすれそうだった。
 矢野は答えなかった。
 答えたら、どこかが壊れてしまう気がした。
 けれど、次の瞬間、静の口元がほんのわずかにほころんだ。
「……冗談ですよ」
 そう言った彼の目は、少しだけ泣きそうだった。
     ※
 明け方、霧が晴れた。
 隊が動き出す頃、静はひとり、野の端に立っていた。
 腰に佩いた剣の鞘を、ゆっくりと地に下ろす。
 その仕草に、誰も気づかない。
 彼はしばし、それを見つめていた。
 何かを手放すように。
 あるいは、預けるように。
 そして、またそれを拾い上げて、何もなかったように歩き出した。
 風が吹いた。
 その白装束の裾を、やわらかく撫でていった。