名もなき剣に、雪が降る

第五話「それでも、剣はまだ温かかった」

 その夜、火の粉が小さく舞っていた。
 湿った薪がときおり弾けるたびに、焚き火の周囲に座る者たちの影が、地面に淡く滲んだ。
 戦場の片隅、敵兵の遺体を野に葬った翌夜。
 俺たちは小隊の囲みに戻り、残された干し肉を分け合っていた。
 沈黙が続いていた。
 皆、言葉よりも、焼けた肉の匂いと木の爆ぜる音に耳を澄ませていた。
 そのうち誰かが、ぽつりと呟いた。
「……斬らなかったんだってな。あの白い鬼神が」
 その一言に、場の空気が震えた。
 誰もが知っている。
 誰もが、見たわけではない。
 だが、斬られなかった敵兵の噂は、煙のように野営地をめぐっていた。
「斬られそうになって、止まったって。喉元で。あと一寸で……」
「そう言えば、生き残った敵兵が震えてたって……夜にうなされて泣いてたらしい」
「泣くのはこっちだっての。斬られるより怖えぇよ、そんなの」
 皆が笑い、けれどどこか引き攣っていた。
 冗談めかした口調の裏に、理解できないものへの畏れがにじんでいた。
 “奪わぬ剣”は、剣よりも深く、兵士の心に傷を刻んでいた。
     ※
 矢野は、静の背中を見ていた。
 火の明かりが届かない少し離れた場所。
 彼は、焚き火から距離を置いて、膝を抱えて座っていた。
 うつむいたその姿勢には、疲れが滲んでいる。
 だが、それ以上に――沈黙の色が濃かった。
 矢野は、ゆっくりと近づいた。
 焚き火の明かりが彼の白装束の背に柔らかく届くころ、静は少しだけ顔を上げた。
「……矢野さん」
 声は穏やかだった。
 けれど、その響きの奥にある空白を、矢野は聞き取っていた。
「寒くないか?」
「ええ。……風が止みましたから」
「ここ、空いてるぞ」
 矢野が腰を下ろすと、静は小さく笑った。
「矢野さんは、夜も賑やかな方々と焚き火を囲むのが似合いますよ」
「おまえも、もうちょっと“普通”にしてくれよ。気が張ってしかたない」
 静は、肩を揺らした。
 それが笑いか、息か、疲れかはわからなかった。
 しばらくして、矢野は切り出した。
「……なんで、止めた?」
「え?」
「剣だよ。あの敵兵の喉元で止めたって話。ほんとか?」
 静は視線を地面に落としたまま、答えなかった。
 火の粉がぱちりと音を立てた。
「命令じゃない。誰かに止められたわけでもない。……自分の判断か?」
「……はい」
 その短い返答のなかに、全てが詰まっているようだった。
 矢野は、彼の横顔をじっと見た。
「怖くないか?」
「何が、ですか?」
「次は斬れなくなるかもしれない、って」
 静は、わずかに眉を寄せた。
「矢野さんは、僕が“斬れなくなる”のを怖れてるんですか?」
「……ああ」
 即答だった。
 それが、兵士としての本音だった。
「でもな」
 続けた矢野の声は、どこか苦かった。
「斬れるおまえも、こわいんだよ。……どこまで人間なんだって、見失いそうになる」
 沈黙が降りた。
 その沈黙の中で、静は、自分の指先を見つめていた。
 剣を握っていない、赤く擦れた手。
 血を洗っても、剣を下ろしても、震えの止まらぬその掌。
「……矢野さん、約束、覚えてますか?」
「ん」
「僕が、人の心を忘れたら。……迷わず、僕を斬ってください」


 焚き火の光に照らされた彼の横顔は、どこまでも静かだった。
 悲しみも怒りもない。
 ただ、そうあるべきだと信じる者の顔だった。
「……おまえ」
 矢野は、言葉がつまった。
 火の粉が、ふたりのあいだにひとつだけ、音もなく落ちた。
「静」
 名を呼ぶと、彼は一度だけ目を細めて笑った。
「大丈夫ですよ。……まだ、“僕”はここにいますから」
 その笑顔が、ひどく遠く見えた。
     ※
 夜が更ける。
 野営地の外れで、見回りの兵士がすれ違った静に、ぽつりとつぶやいた。
「……今日の剣、見てました」
 静は立ち止まる。
「……すげぇな。あんたの剣。あれがあったら、俺ら、怖いもんなしだ」
「……そうですか」
 静は、小さく頭を下げた。
「でも、あんた……なんか、剣が……温かかった」
 その言葉に、静は一瞬、呼吸を忘れた。
 温かい?
 誰かを斬った剣が?
 人を赦したその刃が?
 兵士はもう振り返っていなかった。
 背中だけが、闇のなかに溶けていく。
 静は、手袋越しに自分の掌を握った。
 たしかに、まだ温かかった。
 ……それでも、剣は――まだ、温かかった。