名もなき剣に、雪が降る

第四話「その眼が、すべてを赦していた」

 生き残った理由が、わからなかった。
 あの夜、あの戦場で。
 敵がこちらを囲み、仲間が斃れ、空気が血のにおいに染まった瞬間――
 俺は、もう駄目だと思った。
 後ろから誰かが喉を鳴らして崩れ落ちる音。左の影が崩れると同時に、右手に持っていた短槍が手の中で震えた。握っていたはずなのに、掌に感覚がない。
 次の瞬間、目の前に現れたのは――白だった。
 月でも、霧でもない。
 人間の形をした、白。
 血を浴びた白装束が、夜の闇に溶けながら、ぬるりと動いていた。
 誰かが、「白い鬼だ」と叫んだ。
 声にならない声。
 誰が叫んだのかもわからない。俺だったかもしれない。
 そいつは、斬った。
 いや、“斬る”という言葉では足りなかった。
 跳ねるように地面を走り、沈むように膝を折り、風のように身を滑らせ、
 ――そして、剣が止まる。
 止まった。
 俺の、喉元に。
 斜め下から突き上げるように伸びていたその剣は、俺の首をほんの紙一枚分だけ裂いて、止まった。
 冷たい。
 痛くはないのに、冷たい。
 動けなかった。声も出なかった。
 ただ、その眼だけを見ていた。
 それは――人間の眼だった。
 けれど、普通の人間のそれじゃない。
 沈んでいた。
 ひどく深い、静かな湖みたいな。底が見えない。
 何も映さず、何も求めず、それでいて、すべてを見ていた。
 俺はその眼に、赦されていた。
 理由もなく。条件もなく。
 だからこそ、怖かった。
 生き延びるために命乞いをしたわけじゃない。
 立ち向かったわけでもない。
 ただ、目の前で斃れるべきだったのに――赦された。
 それが、何より怖かった。
     ※
 その後、俺は捕虜になった。
 同じように“斬られなかった”者たちとともに、後方の野営地に移送された。
 医師が喉の切り傷を洗ってくれた。
 傷は浅く、血もすぐに止まった。
「運がよかったですね」と言われた。
 俺は笑えなかった。
 生き残った者は少なかった。
 だが皆、口を揃えて言った。
「止まった」と。
 白装束の剣士の剣は、誰かの骨を砕く前に止まり、
 喉元に届く寸前に止まり、
 振り下ろした軌道の中でわずかに手首を返して止まった、と。
「何かの術じゃないのか」と、ある者は言った。
 だが違う、と別の者が首を振った。
「あれは……あの目は、人の目じゃない。けど、神の目でもない。まるで、何百人を斬ってきた手で、いま初めて人を赦そうとしたような――そんな、目だった」
 誰もが、その目を忘れられなかった。
 斬られなかったのに、命を握られていたことを、骨に刻まれていた。
     ※
 夜、ひとりの男が俺のいる仮設天幕にやってきた。
 彼も捕虜だった。
 俺より年上に見えたが、左肩を深く斬られ、動かぬ腕を布で吊っていた。
「……あの白い剣士、見たのか?」
 問われて、頷いた。
 男は、笑った。
 疲れ切った笑いだった。
「俺は、斬られた。……いや、斬られかけた。でもな、その瞬間、見えたんだ。あいつ、泣きそうな顔してた」
 ――泣きそうな顔?
 その言葉に、鼓動がひとつ跳ねた。
 男は天幕の隅で膝を抱え、続けた。
「あいつ、誰かを殺したくないんだ。けど、誰かを守るために、殺す。……だから苦しいんだ。剣を振るたび、命の重さがあいつに積もっていくんだ」
 俺はそのとき、自分の胸に残っていた“冷たさ”の意味を知った気がした。
 あれは、剣の冷たさじゃない。
 俺の命が、誰かに選ばれて“残された”ことの冷たさだ。
 命を奪わぬ剣は、剣以上に、心を裂く。
     ※
 何日か経ったあと、俺は訊いた。
「あの白装束の剣士の名を、知っているか?」
 周囲の誰も、答えなかった。
 名を知る者はいなかった。
 ただ――
「……沖田、という名らしい」
 若い兵士が、ぽつりと言った。
 どこかの部隊の生き残りが、そう呼んでいたのを聞いた、と。
 沖田。
 それが、本当の名前かどうかは、わからない。
 だがその音は、剣の軌道よりも深く、静かに胸に残った。
     ※
 その後、俺は故郷へ送還された。
 戦争はまだ続いていた。
 けれど、俺の戦いは終わっていた。
 剣を振る手が、震えるようになっていた。
「また戦え」と言われても、もうできなかった。
 あの夜、あの目に見られたときから、俺の中の何かが変わっていた。
 赦された命をどう使うべきか、それを考えることが、俺の戦後だった。
 あの目は、剣より鋭かった。
 剣よりも優しかった。
 そして、誰よりも――人間だった。