第三話「その剣に、名は要らぬ」
あの夜、月は出ていなかった。
空は雲に覆われ、野営地の焚き火が照らすのは、土の色と剣の影ばかりだった。
静が背を向けて歩き出したとき、その背中はいつになく遠く見えた。
剣を研ぎ終えたばかりの矢野は、炭の燃え残りを灰に埋めながら、声をかけるか否かを迷っていた。
呼び止めたとして、何を言えばよかったのだろう。
お前は正しい。
あるいは、お前は間違っている。
それとも、疲れてるなら休めとでも?
どれも意味をなさない気がして、言葉は喉元で潰えた。
それでも、足は自然にあとを追っていた。
※
谷を越えた先に、尾根の端がある。
小さな社の跡地のような、風の通り道。
静は、そこで座っていた。
白装束のまま、背中を丸めず、両膝をきちんと折りたたんで。
剣は傍らに、眠るように置かれていた。
月のない空を仰いでいたその横顔に、矢野はためらいながら声をかけた。
「静」
小さく、応えたような気がした。
だが、それが返事だったのか、ただ風の音だったのかは判然としなかった。
「……お前、今日は変だったな」
無言。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
矢野は地面に腰を下ろし、距離を取らずに隣に座った。
「斬らなかったのは、すげぇと思った。あれだけの人数を、殺さずに止めたなんて、普通じゃない」
静かにうなずいた気配があった。
しかし、続く言葉がなかった。
「でも、お前……途中、目が違ってた」
静の呼吸が、一瞬だけ止まった。
矢野は気づいていた。
最後の三人、止めた剣の軌道がわずかに乱れていたことを。
「殺してない。でも、ギリギリだったろ。……あのまま剣が止まらなかったら、どうするつもりだった?」
しばしの沈黙。
やがて、静がゆっくりと口を開いた。
「……あのとき、心が、間に合わなかったんです」
「……間に合わなかった?」
「はい。……剣の速度と、心の速度が、ずれてしまって。僕は、たぶん、迷っていました。殺すべきかどうかを」
その声は、いつもと同じく穏やかだった。
けれど、どこか震えていた。
「僕が……人の心を、忘れたら」
言葉が、夜気のなかにひとつずつ落ちていく。
「――迷わず、僕を斬ってください」
矢野は目を見開いた。
静の声に、恐れはなかった。悲しみもなかった。
ただ、自分を縛りつける鎖の重さに、自らを叩きつけるような、冷徹な響きがあった。
「……馬鹿言うな」
ようやく絞り出した言葉が、それだった。
「斬るわけないだろ。そんな簡単に……そんな、簡単に言うな」
「簡単ではないから、お願いしているんです」
淡々とした返答。
けれど、その淡さの奥にあるものを、矢野は見逃さなかった。
静は、本気で自分が「人でなくなる」ことを怖れている。
それは、これまでのいくつもの戦場で、彼が奪わずに“止めてきた”ものの重さが、彼自身をすり減らしている証だった。
「俺は……」
言葉を切って、夜空を仰いだ。
雲が流れていた。わずかに、星の気配が覗く。
「……そんな約束、できねぇよ」
「……どうしてですか」
「だって、それってさ……お前がもう“静”じゃなくなってるってことだろ。俺が知ってる“静”が、そこにいないってことだろ。そんなの、嫌に決まってる」
静がゆっくりと、横を向いた。
「それでも……斬ってください。そうでなければ、僕が誰かを殺してしまいます。もし、僕が『止める』ことに失敗したら――」
矢野は息を詰めた。
そのとき、かすかに夜がざわめいた。
静が、右手を膝に置き、その拳をそっと握った。
「……怖いんです。矢野さん」
そのひとことが、すべてだった。
「自分が、いつか、何かを越えてしまうんじゃないかって。大切な何かを、剣の重みに流してしまうんじゃないかって。……それが、怖い」
矢野は、隣の白装束の肩に、そっと拳を置いた。
「だったら……俺が忘れさせねぇよ」
「……え?」
「お前が自分の人間らしさを忘れそうになったら、俺が全部、思い出させる。……だから、お前はお前でいろ」
夜風が、ふたりの間を吹き抜けた。
静はしばらく黙っていた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……難しい約束ですね」
「お前が最初に言ったんだろ。斬れって」
「言いました。……でも、できれば斬られたくないんです」
「だろ?」
ふたりの間に、ようやく小さな笑みが灯った。
戦場ではない、兵ではない、ただの人としての顔が、そこにはあった。
※
その夜、静は再び尾根の先に立った。
誰もいない空。誰もいない風のなか。
そして、ひとりごとのように、ぽつりと呟いた。
「……矢野さんは、強いですね」
それは、強さの本質を見抜く者の言葉だった。
剣ではなく、心の強さ。
人を傷つけずに、誰かのなかに留まり続ける力。
静は、もう一度だけその言葉を胸に刻んだ。
――僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください。
でも、そうなる前に。
まだ、自分にはやるべきことがある。
この手を、誰かの命を“奪う”ためでなく、“届かせる”ために使う限り――
剣に、名は要らない。
その刃に刻むべきものは、たったひとつ。
心を、失わないこと。
あの夜、月は出ていなかった。
空は雲に覆われ、野営地の焚き火が照らすのは、土の色と剣の影ばかりだった。
静が背を向けて歩き出したとき、その背中はいつになく遠く見えた。
剣を研ぎ終えたばかりの矢野は、炭の燃え残りを灰に埋めながら、声をかけるか否かを迷っていた。
呼び止めたとして、何を言えばよかったのだろう。
お前は正しい。
あるいは、お前は間違っている。
それとも、疲れてるなら休めとでも?
どれも意味をなさない気がして、言葉は喉元で潰えた。
それでも、足は自然にあとを追っていた。
※
谷を越えた先に、尾根の端がある。
小さな社の跡地のような、風の通り道。
静は、そこで座っていた。
白装束のまま、背中を丸めず、両膝をきちんと折りたたんで。
剣は傍らに、眠るように置かれていた。
月のない空を仰いでいたその横顔に、矢野はためらいながら声をかけた。
「静」
小さく、応えたような気がした。
だが、それが返事だったのか、ただ風の音だったのかは判然としなかった。
「……お前、今日は変だったな」
無言。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
矢野は地面に腰を下ろし、距離を取らずに隣に座った。
「斬らなかったのは、すげぇと思った。あれだけの人数を、殺さずに止めたなんて、普通じゃない」
静かにうなずいた気配があった。
しかし、続く言葉がなかった。
「でも、お前……途中、目が違ってた」
静の呼吸が、一瞬だけ止まった。
矢野は気づいていた。
最後の三人、止めた剣の軌道がわずかに乱れていたことを。
「殺してない。でも、ギリギリだったろ。……あのまま剣が止まらなかったら、どうするつもりだった?」
しばしの沈黙。
やがて、静がゆっくりと口を開いた。
「……あのとき、心が、間に合わなかったんです」
「……間に合わなかった?」
「はい。……剣の速度と、心の速度が、ずれてしまって。僕は、たぶん、迷っていました。殺すべきかどうかを」
その声は、いつもと同じく穏やかだった。
けれど、どこか震えていた。
「僕が……人の心を、忘れたら」
言葉が、夜気のなかにひとつずつ落ちていく。
「――迷わず、僕を斬ってください」
矢野は目を見開いた。
静の声に、恐れはなかった。悲しみもなかった。
ただ、自分を縛りつける鎖の重さに、自らを叩きつけるような、冷徹な響きがあった。
「……馬鹿言うな」
ようやく絞り出した言葉が、それだった。
「斬るわけないだろ。そんな簡単に……そんな、簡単に言うな」
「簡単ではないから、お願いしているんです」
淡々とした返答。
けれど、その淡さの奥にあるものを、矢野は見逃さなかった。
静は、本気で自分が「人でなくなる」ことを怖れている。
それは、これまでのいくつもの戦場で、彼が奪わずに“止めてきた”ものの重さが、彼自身をすり減らしている証だった。
「俺は……」
言葉を切って、夜空を仰いだ。
雲が流れていた。わずかに、星の気配が覗く。
「……そんな約束、できねぇよ」
「……どうしてですか」
「だって、それってさ……お前がもう“静”じゃなくなってるってことだろ。俺が知ってる“静”が、そこにいないってことだろ。そんなの、嫌に決まってる」
静がゆっくりと、横を向いた。
「それでも……斬ってください。そうでなければ、僕が誰かを殺してしまいます。もし、僕が『止める』ことに失敗したら――」
矢野は息を詰めた。
そのとき、かすかに夜がざわめいた。
静が、右手を膝に置き、その拳をそっと握った。
「……怖いんです。矢野さん」
そのひとことが、すべてだった。
「自分が、いつか、何かを越えてしまうんじゃないかって。大切な何かを、剣の重みに流してしまうんじゃないかって。……それが、怖い」
矢野は、隣の白装束の肩に、そっと拳を置いた。
「だったら……俺が忘れさせねぇよ」
「……え?」
「お前が自分の人間らしさを忘れそうになったら、俺が全部、思い出させる。……だから、お前はお前でいろ」
夜風が、ふたりの間を吹き抜けた。
静はしばらく黙っていた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……難しい約束ですね」
「お前が最初に言ったんだろ。斬れって」
「言いました。……でも、できれば斬られたくないんです」
「だろ?」
ふたりの間に、ようやく小さな笑みが灯った。
戦場ではない、兵ではない、ただの人としての顔が、そこにはあった。
※
その夜、静は再び尾根の先に立った。
誰もいない空。誰もいない風のなか。
そして、ひとりごとのように、ぽつりと呟いた。
「……矢野さんは、強いですね」
それは、強さの本質を見抜く者の言葉だった。
剣ではなく、心の強さ。
人を傷つけずに、誰かのなかに留まり続ける力。
静は、もう一度だけその言葉を胸に刻んだ。
――僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください。
でも、そうなる前に。
まだ、自分にはやるべきことがある。
この手を、誰かの命を“奪う”ためでなく、“届かせる”ために使う限り――
剣に、名は要らない。
その刃に刻むべきものは、たったひとつ。
心を、失わないこと。



