第二話 「木漏れ日の稽古」
門をくぐるということには、何かしらの“敷居”がある。
それは物理的な段差のことではなく、見えない風や、誰かが積み重ねた年月のようなものでできている。だからこそ、足を踏み入れるには覚悟が要る。
少年――静は、その朝、初めて道場の敷居を跨いだ。
誰の手も借りなかった。誰にも背を押されなかった。
何の音もなく、足音も立てず、するりと風のように地を踏んだ。
朝の空気はまだ冷たく、土の上には露が残っていた。
竹林の葉からぽたりと滴が落ちるたび、小さな音が響く。
静はまるで、その音を聞くために歩いているようだった。
裏庭へまわると、木刀が数本、壁際に立てかけられていた。
柄が削れ、木のささくれが手に刺さりそうなほど使い古された稽古用のもの。
静はそれを手に取った。
重さを確かめるように、左から右へと持ち替える。
ぐ、と腕に力を込めて構えてみる。右足が半歩、前に出る。
まだ正しい構えではない。どこかぎこちなく、不格好。
だが――彼はそこから、一歩も動かなかった。
※
その朝の稽古を見ていたのは、年長の門弟である新藤だった。
十七の若者で、近隣では名の知れた使い手だった。
その剣筋は豪快で、師範の宗兵衛にも「剣の筋はいい」と評されていた。
性格も快活で、弟弟子たちには慕われていたが、どこか誇り高い気配をまとっていた。
その新藤が、静を最初に見たとき、眉をひそめたのは当然だった。
「あの子が、入門したって……?」
休憩中の縁側で茶を啜りながら、彼はつぶやいた。
「師範、何を考えているんだか。戦にも出られそうにない、小動物みたいな体じゃないか」
それに答えたのは、同年代の門下生――榎本だった。
「まあまあ。別に本気で戦わせるわけじゃないんだろ。掃除とか手伝いとか、そういうのも大事ってことで」
「……だといいけどな」
新藤は縁側から立ち上がり、ゆるく伸びをした。
遠くで風が吹き、竹が鳴った。その音に、ふと視線を向ける。
そして、目に留まった。
木刀を持ち、地面に向かってゆっくりと剣を振るう、白い小さな影。
新藤はしばし黙って見つめた。
静の動きには、武道の型とは異なる“間”があった。
振りは浅く、軌道もずれている。けれど、何かを探るような感覚――呼吸のように、剣を振っていた。
「……おい」
思わず声をかけた。
静はぴたりと動きを止め、背を向けたまま返事をしなかった。
ただ、風が止んだように、沈黙があたりを包んだ。
「名前、あるのか?」
静はゆっくりと振り返った。
眼差しは変わらず、深く澄んでいた。どこか水底を覗きこむような、無音の視線。
「……ありません。でも、ここでは“静”と呼ばれるようです」
「静、ね……へぇ」
新藤はひとつ笑った。それは冷笑ではなく、少しだけ興味を示した顔だった。
「ちょっと来てみろよ。構え、見てやる」
静は一言も発さずに、歩み寄った。
新藤は傍らの木刀を一本手にし、空の中段に構えた。
「こうやってな。両足は肩幅、左足を少し引く。腰は落としすぎない。刃はまっすぐ前。剣先は……」
言いながら、静を見た。
そして言葉が止まった。
静が、完璧な構えをしていた。
まるで見ているだけで、それを身体に写し取ったかのように。
癖も力みもない。手の内の柔らかさ、膝の抜き、首の傾き、すべてが自然だった。
新藤は口を開けたまま、しばらく動けなかった。
※
午後の稽古の時間、宗兵衛が静の様子を見にやってきた。
縁側の陰に立ち、黙って数刻のあいだ、静の動きを見守っていた。
型を知らぬ子どもが、手探りで剣を振っている。
だが、その一つひとつの動作が“無駄に美しい”。
「……思い出しているのだな」
宗兵衛は、ぽつりと呟いた。
そこにあるのは“学び”ではない。
それは、眠っていた記憶の復元。
あるいは、身体が勝手に覚えている動きの再現。
静はまるで、何年も前に忘れていた誰かの言葉をなぞるように、剣を振っていた。
※
数日後、静は“試される”ことになる。
新藤の申し出だった。
「師範、この子、試してもいいですか?」
「……どういう意味でだ」
宗兵衛は茶を啜りながら、軽く片眉を上げた。
新藤は、わざとらしく両手を広げた。
「もちろん、木刀で、軽く。どこまで動けるかって話ですよ」
「剣を持った子どもに手を出すのは、褒められたものではない」
「なら、竹刀にしましょうか。面も着けて」
静は黙って新藤を見ていた。
「……やります」
言葉は淡々としていた。挑むわけでもなく、恐れるわけでもなく。
「ただ、斬りません。斬られるのも嫌です。けど――やります」
新藤は笑った。
その顔には、武人の血が滲んでいた。
※
その日の夕刻、道場には門下生たちが集まった。
静と新藤が向かい合う。
面をつけた二人の間に、宗兵衛が立つ。
「構え」
合図とともに、二人が竹刀を構えた。
「始め!」
その声と同時に、新藤が動いた。
竹刀が風を裂き、一直線に振り下ろされる。
静は――動かなかった。
かわしたのではない。受けたのでもない。
ただ、一歩だけ足を動かし、わずかに軸をずらしただけ。
新藤の竹刀は空を斬った。
その一瞬、道場に風が吹いたようだった。
次の瞬間、静の竹刀が、新藤の脇へするどく伸びる。
それは、当たる寸前で止まった。
「一本!」
宗兵衛の声が、静かに響いた。
※
誰もが、言葉を失っていた。
静の剣には、技術も流派もなかった。
ただ、“気配を消す”という一点において、完璧だった。
「……なんだ、あの子」
誰かがつぶやいた。
新藤は面を外し、しばし静を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……強いな。お前」
静は何も言わなかった。
ただ、礼を返した。深く、丁寧に。
その日から、道場の空気が少しだけ変わった。
名もなき剣士が、そこに“存在”として刻まれた瞬間だった。
門をくぐるということには、何かしらの“敷居”がある。
それは物理的な段差のことではなく、見えない風や、誰かが積み重ねた年月のようなものでできている。だからこそ、足を踏み入れるには覚悟が要る。
少年――静は、その朝、初めて道場の敷居を跨いだ。
誰の手も借りなかった。誰にも背を押されなかった。
何の音もなく、足音も立てず、するりと風のように地を踏んだ。
朝の空気はまだ冷たく、土の上には露が残っていた。
竹林の葉からぽたりと滴が落ちるたび、小さな音が響く。
静はまるで、その音を聞くために歩いているようだった。
裏庭へまわると、木刀が数本、壁際に立てかけられていた。
柄が削れ、木のささくれが手に刺さりそうなほど使い古された稽古用のもの。
静はそれを手に取った。
重さを確かめるように、左から右へと持ち替える。
ぐ、と腕に力を込めて構えてみる。右足が半歩、前に出る。
まだ正しい構えではない。どこかぎこちなく、不格好。
だが――彼はそこから、一歩も動かなかった。
※
その朝の稽古を見ていたのは、年長の門弟である新藤だった。
十七の若者で、近隣では名の知れた使い手だった。
その剣筋は豪快で、師範の宗兵衛にも「剣の筋はいい」と評されていた。
性格も快活で、弟弟子たちには慕われていたが、どこか誇り高い気配をまとっていた。
その新藤が、静を最初に見たとき、眉をひそめたのは当然だった。
「あの子が、入門したって……?」
休憩中の縁側で茶を啜りながら、彼はつぶやいた。
「師範、何を考えているんだか。戦にも出られそうにない、小動物みたいな体じゃないか」
それに答えたのは、同年代の門下生――榎本だった。
「まあまあ。別に本気で戦わせるわけじゃないんだろ。掃除とか手伝いとか、そういうのも大事ってことで」
「……だといいけどな」
新藤は縁側から立ち上がり、ゆるく伸びをした。
遠くで風が吹き、竹が鳴った。その音に、ふと視線を向ける。
そして、目に留まった。
木刀を持ち、地面に向かってゆっくりと剣を振るう、白い小さな影。
新藤はしばし黙って見つめた。
静の動きには、武道の型とは異なる“間”があった。
振りは浅く、軌道もずれている。けれど、何かを探るような感覚――呼吸のように、剣を振っていた。
「……おい」
思わず声をかけた。
静はぴたりと動きを止め、背を向けたまま返事をしなかった。
ただ、風が止んだように、沈黙があたりを包んだ。
「名前、あるのか?」
静はゆっくりと振り返った。
眼差しは変わらず、深く澄んでいた。どこか水底を覗きこむような、無音の視線。
「……ありません。でも、ここでは“静”と呼ばれるようです」
「静、ね……へぇ」
新藤はひとつ笑った。それは冷笑ではなく、少しだけ興味を示した顔だった。
「ちょっと来てみろよ。構え、見てやる」
静は一言も発さずに、歩み寄った。
新藤は傍らの木刀を一本手にし、空の中段に構えた。
「こうやってな。両足は肩幅、左足を少し引く。腰は落としすぎない。刃はまっすぐ前。剣先は……」
言いながら、静を見た。
そして言葉が止まった。
静が、完璧な構えをしていた。
まるで見ているだけで、それを身体に写し取ったかのように。
癖も力みもない。手の内の柔らかさ、膝の抜き、首の傾き、すべてが自然だった。
新藤は口を開けたまま、しばらく動けなかった。
※
午後の稽古の時間、宗兵衛が静の様子を見にやってきた。
縁側の陰に立ち、黙って数刻のあいだ、静の動きを見守っていた。
型を知らぬ子どもが、手探りで剣を振っている。
だが、その一つひとつの動作が“無駄に美しい”。
「……思い出しているのだな」
宗兵衛は、ぽつりと呟いた。
そこにあるのは“学び”ではない。
それは、眠っていた記憶の復元。
あるいは、身体が勝手に覚えている動きの再現。
静はまるで、何年も前に忘れていた誰かの言葉をなぞるように、剣を振っていた。
※
数日後、静は“試される”ことになる。
新藤の申し出だった。
「師範、この子、試してもいいですか?」
「……どういう意味でだ」
宗兵衛は茶を啜りながら、軽く片眉を上げた。
新藤は、わざとらしく両手を広げた。
「もちろん、木刀で、軽く。どこまで動けるかって話ですよ」
「剣を持った子どもに手を出すのは、褒められたものではない」
「なら、竹刀にしましょうか。面も着けて」
静は黙って新藤を見ていた。
「……やります」
言葉は淡々としていた。挑むわけでもなく、恐れるわけでもなく。
「ただ、斬りません。斬られるのも嫌です。けど――やります」
新藤は笑った。
その顔には、武人の血が滲んでいた。
※
その日の夕刻、道場には門下生たちが集まった。
静と新藤が向かい合う。
面をつけた二人の間に、宗兵衛が立つ。
「構え」
合図とともに、二人が竹刀を構えた。
「始め!」
その声と同時に、新藤が動いた。
竹刀が風を裂き、一直線に振り下ろされる。
静は――動かなかった。
かわしたのではない。受けたのでもない。
ただ、一歩だけ足を動かし、わずかに軸をずらしただけ。
新藤の竹刀は空を斬った。
その一瞬、道場に風が吹いたようだった。
次の瞬間、静の竹刀が、新藤の脇へするどく伸びる。
それは、当たる寸前で止まった。
「一本!」
宗兵衛の声が、静かに響いた。
※
誰もが、言葉を失っていた。
静の剣には、技術も流派もなかった。
ただ、“気配を消す”という一点において、完璧だった。
「……なんだ、あの子」
誰かがつぶやいた。
新藤は面を外し、しばし静を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……強いな。お前」
静は何も言わなかった。
ただ、礼を返した。深く、丁寧に。
その日から、道場の空気が少しだけ変わった。
名もなき剣士が、そこに“存在”として刻まれた瞬間だった。



