第二話「四十の影、白刃の中に」
風が止んでいた。
午前の霧が尾根を這い、谷を浸していた。
斥候が駆け戻ってきたのは、まさにその霧の濃さが限界に達したころだった。
「敵、四十。北斜面の獣道から侵入――!」
誰かが顔をしかめ、別の誰かが剣に手をかけた。
小さな部隊だった。十数人に過ぎない。備えはあっても、数の差は歴然だった。
「……持たないな、こりゃ」
誰かの呟きに、誰も返さなかった。
ただひとつ、風に揺れた音があった。
それは衣擦れの音だった。
す、と音を立てて、ひとりの兵が立ち上がった。
白の装束に、白の鞘。
草履の音すら立てずに、彼は歩き出した。
名を、沖田静という。
※
斜面を駆け下りる敵兵たちの列は、ある一点で突然乱れた。
まるで、見えないものに突き当たったかのように。
それはひとつの白。
風も音も吸い込むような、その白の中で、剣が振るわれていた。
戦列が崩れる。声が上がる。剣が地を裂き、木々をかすめる。
だが、叫びは「死」ではなかった。
斬られていない――
倒された兵の誰もが、意識を保っていた。
剣が首を掠めたと感じた者も、ただ仰向けに倒れ、息をしていた。
「何が、起きてる……?」
尾根の上から、味方の兵のひとり――吉村という若い兵士が、息を呑んだ。
斬らずに、倒している。
それも、一撃。すべてが、たった一閃で。
その白装束の背が、敵兵をなぎ倒しながら、次第に森の奥へ消えていく。
「静……」
矢野が息を呑むように名を呼んだ。
返事はなかった。もう届かない距離にいた。
※
敵兵の視界に、白い影が差したのはその直後だった。
砂利を踏む音、斜面に跳ねた草の水滴。
そのすべてが、剣戟の合間にあった。
男は思った。――見えない。
刃が、視界の外にいた。
次の瞬間、自分の手から剣が弾かれていた。
痛みではなかった。感覚そのものが切り取られたような、空虚な衝撃。
「斬れ……いや、違う。違う、これは――」
敵兵はよろめきながら、膝をついた。
白い剣士の姿が、すぐ近くにあった。
その顔は、静かだった。怒りでも、哀しみでもない。
ただ、一瞬のためらいがあった。
それは確かに、剣を振るう者の迷いだった。
「……あんた……」
男は言葉を紡げなかった。
白き刃は、男の肩口で静止していた。
「なぜ、斬らなかった……?」
問いの代わりに、風が吹いた。
それが、唯一の答えだった。
※
その後に続く二十人を相手に、沖田は後退せず、真っ向から立ち塞がった。
敵の叫びが上がる。突撃。槍の列。
それでも沖田は剣を構え、ただ静かに、ひとつずつ迎撃した。
左の腕を打たれ、頬に傷を負い、それでも止まらなかった。
吉村が、その後の光景を「白い火柱のようだった」と語っている。
「斬ったのに、誰も死んでなかった。なのに、皆動けなくなってた」
矢野がその場に駆けつけたのは、すべてが終わった直後だった。
地に伏した敵兵たちの間を、白装束の背中が歩いていた。
「静……!」
声に、背が一瞬、止まった。
だが振り返らなかった。
そのまま、沖田は静かに鞘に剣を収めた。
鞘音ひとつなかった。
※
「……届かないんですよ」
夜の焚き火の前で、静がぽつりと呟いた。
「さっきの、三十五人目……届かなかった。だから、一瞬……心が、揺れた」
火が、ぱちりと爆ぜた。
矢野は、その言葉の意味を探った。
「迷ったのか」
「ええ。……斬らない理由が、わからなくなったんです。……何のために、止めるのか」
「――それでも、止めたじゃないか」
「……奇跡ですよ。次はできるか、わかりません」
静は焚き火の揺らぎを見ていた。
目の奥に、何かがあった。
それは恐怖ではなかった。寂しさでもなかった。
……罪。
矢野は言葉を探した。
だが、沈黙がそれを許さなかった。
「矢野さん」
「ん」
「次に……僕が、届かなかったら。剣が、止まらなかったら――」
矢野は、火に小枝をひとつ落とした。
「ああ、止める。俺が止める。必ず」
「……ありがとう」
それ以上、言葉は続かなかった。
夜風が吹いた。
火の粉がひとつ、空へ舞い上がって、闇に溶けた。
そして翌朝、沖田はまた白装束をまとい、
誰よりも早く、戦地への道を歩き始めていた。
風が止んでいた。
午前の霧が尾根を這い、谷を浸していた。
斥候が駆け戻ってきたのは、まさにその霧の濃さが限界に達したころだった。
「敵、四十。北斜面の獣道から侵入――!」
誰かが顔をしかめ、別の誰かが剣に手をかけた。
小さな部隊だった。十数人に過ぎない。備えはあっても、数の差は歴然だった。
「……持たないな、こりゃ」
誰かの呟きに、誰も返さなかった。
ただひとつ、風に揺れた音があった。
それは衣擦れの音だった。
す、と音を立てて、ひとりの兵が立ち上がった。
白の装束に、白の鞘。
草履の音すら立てずに、彼は歩き出した。
名を、沖田静という。
※
斜面を駆け下りる敵兵たちの列は、ある一点で突然乱れた。
まるで、見えないものに突き当たったかのように。
それはひとつの白。
風も音も吸い込むような、その白の中で、剣が振るわれていた。
戦列が崩れる。声が上がる。剣が地を裂き、木々をかすめる。
だが、叫びは「死」ではなかった。
斬られていない――
倒された兵の誰もが、意識を保っていた。
剣が首を掠めたと感じた者も、ただ仰向けに倒れ、息をしていた。
「何が、起きてる……?」
尾根の上から、味方の兵のひとり――吉村という若い兵士が、息を呑んだ。
斬らずに、倒している。
それも、一撃。すべてが、たった一閃で。
その白装束の背が、敵兵をなぎ倒しながら、次第に森の奥へ消えていく。
「静……」
矢野が息を呑むように名を呼んだ。
返事はなかった。もう届かない距離にいた。
※
敵兵の視界に、白い影が差したのはその直後だった。
砂利を踏む音、斜面に跳ねた草の水滴。
そのすべてが、剣戟の合間にあった。
男は思った。――見えない。
刃が、視界の外にいた。
次の瞬間、自分の手から剣が弾かれていた。
痛みではなかった。感覚そのものが切り取られたような、空虚な衝撃。
「斬れ……いや、違う。違う、これは――」
敵兵はよろめきながら、膝をついた。
白い剣士の姿が、すぐ近くにあった。
その顔は、静かだった。怒りでも、哀しみでもない。
ただ、一瞬のためらいがあった。
それは確かに、剣を振るう者の迷いだった。
「……あんた……」
男は言葉を紡げなかった。
白き刃は、男の肩口で静止していた。
「なぜ、斬らなかった……?」
問いの代わりに、風が吹いた。
それが、唯一の答えだった。
※
その後に続く二十人を相手に、沖田は後退せず、真っ向から立ち塞がった。
敵の叫びが上がる。突撃。槍の列。
それでも沖田は剣を構え、ただ静かに、ひとつずつ迎撃した。
左の腕を打たれ、頬に傷を負い、それでも止まらなかった。
吉村が、その後の光景を「白い火柱のようだった」と語っている。
「斬ったのに、誰も死んでなかった。なのに、皆動けなくなってた」
矢野がその場に駆けつけたのは、すべてが終わった直後だった。
地に伏した敵兵たちの間を、白装束の背中が歩いていた。
「静……!」
声に、背が一瞬、止まった。
だが振り返らなかった。
そのまま、沖田は静かに鞘に剣を収めた。
鞘音ひとつなかった。
※
「……届かないんですよ」
夜の焚き火の前で、静がぽつりと呟いた。
「さっきの、三十五人目……届かなかった。だから、一瞬……心が、揺れた」
火が、ぱちりと爆ぜた。
矢野は、その言葉の意味を探った。
「迷ったのか」
「ええ。……斬らない理由が、わからなくなったんです。……何のために、止めるのか」
「――それでも、止めたじゃないか」
「……奇跡ですよ。次はできるか、わかりません」
静は焚き火の揺らぎを見ていた。
目の奥に、何かがあった。
それは恐怖ではなかった。寂しさでもなかった。
……罪。
矢野は言葉を探した。
だが、沈黙がそれを許さなかった。
「矢野さん」
「ん」
「次に……僕が、届かなかったら。剣が、止まらなかったら――」
矢野は、火に小枝をひとつ落とした。
「ああ、止める。俺が止める。必ず」
「……ありがとう」
それ以上、言葉は続かなかった。
夜風が吹いた。
火の粉がひとつ、空へ舞い上がって、闇に溶けた。
そして翌朝、沖田はまた白装束をまとい、
誰よりも早く、戦地への道を歩き始めていた。



