第一話「鬼神、空を裂く」

 最初にそれを見たのは、山岳の斥候兵だった。
 霧の深い朝、谷間を見下ろす斜面の上で、彼は不意に足を止めた。
 静寂の中に、音があった。
 それは馬の蹄でも、弓の弦の軋みでもなかった。
 ただ、ひとつずつ間隔を空けながら、斬撃が地面を裂くような音。
 敵襲かと目を凝らし、彼は凍りついた。
 白い。
 その兵は、まるで神事の装束のような白い衣をまとっていた。
 剣を携え、地面を踏みしめ、ただひとり、山道を下ってくる。
 すでにその背後には、転がる者たちがいた。
 味方の兵――四人、五人、いや、十人を越えていた。
 だが、誰ひとり、首を斬られた者はいなかった。
 剣は振るわれている。確かに速く、鋭く、正確に。
 けれど、殺していない。
 なぜかはわからない。ただ、殺していない。
 だが、倒されている。
 その白き剣士は、誰も殺さずに、道を開いていた。
     ※
「……神か、あれは」
 捕虜となった兵士が、火の前でそう呟いたのは、それから三日後のことだった。
 彼の足にはまだ踏み込みによる打撲の痛みが残っており、
 胸には一本の竹のような骨折がある。
「死ななかったのが、不思議でならなかった」
 そう語る彼の視線の先に、誰もいなかった。
 夜営の灯が揺れて、ただ湿った風が吹いているだけだった。
「剣が、止まったんだ。寸前で。……斬れたはずだったのに」
「手加減されたのか?」
「いや、ちがう。……“裁かれた”んだと思った。あれは、命を取るか取らないかを、“判断する者”の眼だった。……あの眼が、自分を赦したような気がして、それが……怖かった」
 捕虜兵は、しばらく言葉を失った。
「いっそ斬られていた方が、気が楽だったかもしれない」
     ※
 沖田静が、再び“白装束の鬼神”と呼ばれ始めたのは、この戦域に移ってからだ。
 白い袴、白い着流し、白鞘の剣。
 装束は軍服の規定に準じていないが、上層部は黙認していた。
 誰もが、そこに踏み込むことをためらった。
 というより、彼がそう在ることに、意味があるように思えていた。
「白は、罪を隠さない。目立つのに、隠さない」
 誰かがそう評した。
 血の一滴すら映えるその装束で、戦場に立つこと――
 それは、罪を負う覚悟の証に見えた。
 だが、実際の沖田は、以前より斬らなくなっていた。
 兵十人を、二十人を、剣一本で倒しても、致命傷を負わせた者はいなかった。
 彼の剣は、殺すためにではなく、止めるために振るわれていた。
 ――それが、かえって恐ろしい。
 そう敵兵は語った。
     ※
 ある日の戦で、敵の先鋒隊四十人を、沖田ひとりで退けたという報があった。
 矢野もまた、その場にいた。
 崖上からの強襲。
 先頭を駆ける白装束の剣士が、敵の波にそのまま突入する光景を、
 味方全員が“見届けるしかなかった”。
 足音が、一切乱れなかった。
 斬る音より、歩く音の方が静かだった。
 そして、すべてが終わったあと、そこにはただ、倒れ伏した兵士たちと、
 剣を納める白い姿があった。
「誰も死んでいない」と、救護兵が震えながら言ったとき、味方の誰もが黙り込んだ。
 そして、ある兵士が小さく呟いた。
「……あれはもう、“人”じゃないのかもしれねぇな」
     ※
 だが、その“神格化”に、本人だけは何の実感も抱いていなかった。
 夜、ひとり火のそばにいた静は、矢野の問いかけに答えなかった。
「斬らずに済んだ。すげぇことだよ。……なあ、静」
「……あれは、剣じゃないんです」
「え?」
「ただの、意思です。……斬りたくないっていう、祈りに近いものです」
「でも、あの速度で、寸止めしてるんだろ? そんなの――」
「だから、僕じゃないんですよ。……あれは、僕が僕に負けないようにするための、手段です」
「……」
「いつか、届かなくなるかもしれない」
 その声は、どこか幼さを残していた。
「そのときは――」
「そのときは、俺が止めるよ」
 矢野は、火に薪をくべた。
 ぱちりと爆ぜた音に、静は顔を上げた。
「約束ですよ?」
「ああ、何度でも。おまえが、“人”でいられるように、何度でも」
 そして、その夜、二人は互いに火の音を聞いていた。
 それが、まだ剣の音に変わっていないことを、心から願いながら。