第十五話「この刃のまま、どこへ」
戦の終わる音がした。
それは、剣が折れる音でも、旗が倒れる音でもなかった。
ただ、遠くからゆっくりと、風が戻ってくる音だった。
空は鈍く曇っていた。
太陽の位置さえ曖昧な空の下、兵たちの動きが止まっていた。
立ち尽くす者、倒れる者、ただ息をしている者。
その全員が、いまひとつの同じ風に包まれていた。
戦場だった場所は、ただの静かな斜面に還ろうとしていた。
だが――彼だけは、まだその“境”に立っていた。
沖田静。
剣を手に立ち尽くす、その姿は、もはや人のものではなかった。
※
矢野蓮は、血に濡れた地面に膝をついていた。
味方が破れ、敵軍が押し返され、双方が損耗しきって散り散りになるなか、
彼と静は再び“最前”にいた。
ただ、ふたりだけが、斬ることも、斬られることもせず、そこに立っていた。
「……静」
ようやく、名を呼んだ。
それは声ではなく、ただ“気配”をぶつけるような呼びかけだった。
静はゆっくりと振り返った。
その目は、霞んでいた。
焦点が定まらず、どこを見ているのかわからない。
「……矢野さん」
呼ばれた名は、確かに矢野に届いた。
だがその声音には、“疑問”の色が混じっていた。
まるで、自分が誰を呼んでいるのかすら、確信できていないような声だった。
「ここにいる。……俺は、ここにいるぞ」
矢野は、立ち上がろうとした。
けれど、足が言うことをきかなかった。
戦の中で受けた裂傷が、ようやく痛みとして現れ始めていた。
「静、……帰ろう。もういい」
静は、剣を見た。
刃に、血はついていなかった。
それでも、その剣が“命を奪ったことがある”と知っている者ならば、
その“静けさ”こそが、もっとも恐ろしいものだとわかるはずだった。
「……あと、少しでした」
「なにが?」
「全部、斬ってしまうところでした。
敵も、味方も、自分も。……すべてが、どうでもよくなりかけていた」
「……」
「でも、聞こえたんです。あなたの声が」
矢野は、その言葉に胸の奥がしめつけられるのを感じた。
「それでも、まだ、届くんだな。俺の声」
「はい。まだ、です。……いつまで届くか、わからないけど」
「届くうちは、叫び続ける。俺は、そう決めてるから」
※
戦のあと、野営地には奇妙な静けさがあった。
生き残った者たちは、言葉を交わさなかった。
戦況がどうなったのか、勝ちなのか負けなのか、それすらわからなかった。
だが、もう誰もそれを訊こうとはしなかった。
矢野は、火の前にいた。
その隣に、静がいた。
ふたりとも、いつもより少しだけ間を空けて座っていた。
それが、いま必要な“距離”だった。
「静」
「はい」
「おまえ、……これからどうする?」
静は、わずかに目を伏せた。
「斬りたくないです。でも、剣を置く気は、ありません」
「そっか」
「僕が斬ることで、誰かが斬らずに済むなら。
その誰かが、矢野さんなら……僕は、そのためだけに剣を振れます」
矢野は、火を見たまま言った。
「なら、俺は、おまえが人間でいられるように、ずっと見てる。
背中も、横顔も、目も。……名前も、呼ぶ」
「ありがとうございます」
それきり、静はそれ以上言わなかった。
火の粉がひとつ、舞い上がった。
その行き先を、誰も知らなかった。
※
その夜、矢野は眠れなかった。
だが、目を閉じて、あの戦場を思い出すことはしなかった。
かわりに、明日の風景を想像した。
剣を持たず、ただ火のそばにいる静の姿を。
何も起こらない日。
斬らずに済む一日。
戦が終わる予感だけを抱いたまま、日が暮れていく時間。
たぶん、それは訪れない。
けれど、願うことはできる。
――あいつが、もう“斬らずに済む日”が、いつか来るかもしれない。
そのとき、俺はなんと呼びかけるのだろう。
「静」と呼ぶその声が、“戦場”ではなく、“人間”としての名前を意味する日が来たら――
その日まで、俺は何度でも、あいつの背を呼びつづける。
戦の終わる音がした。
それは、剣が折れる音でも、旗が倒れる音でもなかった。
ただ、遠くからゆっくりと、風が戻ってくる音だった。
空は鈍く曇っていた。
太陽の位置さえ曖昧な空の下、兵たちの動きが止まっていた。
立ち尽くす者、倒れる者、ただ息をしている者。
その全員が、いまひとつの同じ風に包まれていた。
戦場だった場所は、ただの静かな斜面に還ろうとしていた。
だが――彼だけは、まだその“境”に立っていた。
沖田静。
剣を手に立ち尽くす、その姿は、もはや人のものではなかった。
※
矢野蓮は、血に濡れた地面に膝をついていた。
味方が破れ、敵軍が押し返され、双方が損耗しきって散り散りになるなか、
彼と静は再び“最前”にいた。
ただ、ふたりだけが、斬ることも、斬られることもせず、そこに立っていた。
「……静」
ようやく、名を呼んだ。
それは声ではなく、ただ“気配”をぶつけるような呼びかけだった。
静はゆっくりと振り返った。
その目は、霞んでいた。
焦点が定まらず、どこを見ているのかわからない。
「……矢野さん」
呼ばれた名は、確かに矢野に届いた。
だがその声音には、“疑問”の色が混じっていた。
まるで、自分が誰を呼んでいるのかすら、確信できていないような声だった。
「ここにいる。……俺は、ここにいるぞ」
矢野は、立ち上がろうとした。
けれど、足が言うことをきかなかった。
戦の中で受けた裂傷が、ようやく痛みとして現れ始めていた。
「静、……帰ろう。もういい」
静は、剣を見た。
刃に、血はついていなかった。
それでも、その剣が“命を奪ったことがある”と知っている者ならば、
その“静けさ”こそが、もっとも恐ろしいものだとわかるはずだった。
「……あと、少しでした」
「なにが?」
「全部、斬ってしまうところでした。
敵も、味方も、自分も。……すべてが、どうでもよくなりかけていた」
「……」
「でも、聞こえたんです。あなたの声が」
矢野は、その言葉に胸の奥がしめつけられるのを感じた。
「それでも、まだ、届くんだな。俺の声」
「はい。まだ、です。……いつまで届くか、わからないけど」
「届くうちは、叫び続ける。俺は、そう決めてるから」
※
戦のあと、野営地には奇妙な静けさがあった。
生き残った者たちは、言葉を交わさなかった。
戦況がどうなったのか、勝ちなのか負けなのか、それすらわからなかった。
だが、もう誰もそれを訊こうとはしなかった。
矢野は、火の前にいた。
その隣に、静がいた。
ふたりとも、いつもより少しだけ間を空けて座っていた。
それが、いま必要な“距離”だった。
「静」
「はい」
「おまえ、……これからどうする?」
静は、わずかに目を伏せた。
「斬りたくないです。でも、剣を置く気は、ありません」
「そっか」
「僕が斬ることで、誰かが斬らずに済むなら。
その誰かが、矢野さんなら……僕は、そのためだけに剣を振れます」
矢野は、火を見たまま言った。
「なら、俺は、おまえが人間でいられるように、ずっと見てる。
背中も、横顔も、目も。……名前も、呼ぶ」
「ありがとうございます」
それきり、静はそれ以上言わなかった。
火の粉がひとつ、舞い上がった。
その行き先を、誰も知らなかった。
※
その夜、矢野は眠れなかった。
だが、目を閉じて、あの戦場を思い出すことはしなかった。
かわりに、明日の風景を想像した。
剣を持たず、ただ火のそばにいる静の姿を。
何も起こらない日。
斬らずに済む一日。
戦が終わる予感だけを抱いたまま、日が暮れていく時間。
たぶん、それは訪れない。
けれど、願うことはできる。
――あいつが、もう“斬らずに済む日”が、いつか来るかもしれない。
そのとき、俺はなんと呼びかけるのだろう。
「静」と呼ぶその声が、“戦場”ではなく、“人間”としての名前を意味する日が来たら――
その日まで、俺は何度でも、あいつの背を呼びつづける。



