名もなき剣に、雪が降る

第十四話「沈黙の火のなかで」

 火が静かに揺れていた。
 息を潜めるように、黙って、ただそこに燃えていた。
 まるで、言葉のかわりを引き受けているかのように。
 矢野蓮は、その炎を見つめていた。
 何も考えていないはずだったのに、思考が止まることはなかった。
 肩の包帯の下で、傷がひくつく。
 昨日の戦いの記憶が、未整理のまま脳の隅に貼りついていた。
 あれは“自分”だったのか――
 斬ったのは、この手だったのか――
 問うたところで、返ってくるものはなかった。
 ただ、手のひらに残る汗の湿りと、刃の重さの記憶だけが、確かだった。
     ※
 静はまだ戻ってきていなかった。
 矢野の記憶の中では、いつだって彼は“先に”そこにいた。
 火のそばに、あるいは戦場の道の上に。
 だが今日は違った。
 “矢野のほうが先に火の前に座り、静を待っている”――
 それが、なぜだかわからないが、とても奇妙なことに思えた。
 沈黙は時間を曖昧にする。
 火の揺れが“今”を奪っていく。
 矢野は、あえて口を開かなかった。
 そこに誰かがいてもいなくても、言葉を発すれば“何か”が崩れる気がした。
 そして、崩れてはいけないものが、この火の中には確かにあった。
     ※
 足音がした。
 柔らかく、草を踏みしめる気配。
 振り返らずとも、誰なのかはわかっていた。
「……遅かったな」
「すみません」
 そう返す声に、乱れはなかった。
 矢野は、炎を見つめたまま言った。
「少しは……眠れたか」
「少し、だけ。……矢野さんは?」
「……夢は、見た」
「どんな?」
 矢野は、それには答えなかった。
 代わりに、火にひと枝をくべた。
 小さく火が爆ぜた。
 ふたりの間にあった空気が、わずかに動いた。
「夢のなかで、俺は“斬らなかった”。本当は、あれだって……避けられたんじゃないかって、何度も考えた」
「……避けられませんでしたよ」
「でも、もしかしたら、俺は“斬りたかった”んじゃないかって思った。怖かったんだ、自分の中の、どこかでそれを“許してる”ことが」
 沈黙があった。
 だが、それは拒絶のそれではなかった。
 静は、炎に手をかざすようにして、ぽつりと言った。
「僕は……斬らなければならないときのことを、先に“許してしまう”癖があるんです。斬る前に、“これは仕方がない”って、心の奥で勝手に決めてしまう。そのせいで……“斬ってしまう”ことに、抵抗が鈍くなる」
「……」
「でも矢野さんは、昨日、斬ることに“痛み”を残しました。だから、まだ大丈夫です。“そのまま”じゃなくなることを、きちんと、怖がれるから」
 矢野は、初めて顔を上げて、静を見た。
 その目は、少しだけ赤かった。
 眠っていないことより、泣いたあとのようにも見えた。
 けれど、言葉にはしなかった。
 沈黙のなかにあるものを、無理に名づけてはいけないと、矢野は知っていた。
     ※
 しばらくのあいだ、ふたりは火のそばにいた。
 仲間たちは離れた場所で休んでいた。
 野営地の夜は静かだった。
 虫の声も風の音も少なく、ただ草が乾く音だけが微かにあった。
「静、おまえはさ」
「はい」
「斬ることのない戦が、来ると思うか?」
「……思いたいです。でも、それを“自分の剣で終わらせる”ことは、きっとできません」
「おまえが終わらせなくてもいい。でも、おまえが斬らずに“立ち尽くして”いてくれたら、それだけで意味がある」
「……矢野さん、そういうの、ずるいです」
「ずるいって?」
「そう言われると、斬れなくなるじゃないですか」
 ふたりは、そこで笑った。
 短く、声に出さず、どこか喉の奥で転がるような、
 戦場で何も奪わなかった、ひとつの笑いだった。
     ※
 その夜、矢野は火が消えるまでそこを離れなかった。
 静もまた、最後の火の粉が地に落ちるまで、剣に手を伸ばさなかった。
 斬ることも、言葉にすることも、何も必要ではなかった。
 ただ、そこにいた。
 “剣を持たずに座る”ということが、こんなにも難しく、
 そしてこんなにも赦されることだと、ふたりは同時に知っていた。
 ――それでも、明日が来る。
 また誰かが剣を抜き、誰かが命を落とす。
 けれどその前に、こうして焚き火を囲む夜があることを、
 彼らは決して忘れてはならなかった。